187 我が身を見つめる

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我が身を見つめる
 サッカーのワールドカップが今南アフリカで行なわれています。(この文章を書き上げているとき)しかし、日本の代表は決勝トーナメントにて一生も出来ずに残念ながら終わっていきました。テレビなどのマスコミでは、サッカーワールドカップの話題を取り上げない日はなかったと言って良いぐらいでした。これから少しずつ静かになってゆくことでしょう。私はそういうはやりに乗るのが苦手で、今の場合も同様で、気にはなってますが、試合を生放送で見たのは本当に数回でした。
 この以上敵状態でおもしろく思っていたのが、日本代表を務める監督への対応が、マスコミといえばよいのか、世論といえばよいのかわかりませんが、ワールドカップが始まるときまでは、批判の的、悪の根源はカレだといわんばかりでしたが、予選で一勝しただけで、ころりと表現が変って、神様のように扱っていたのが、滑稽でたまりませんでした。監督というのはどれだけよい選手を育てたとしてもよい結果、試合に勝つという事実が生まれなかったならばダメな監督と評価されるのだとしみじみと考えさせられました。
 私たちは何か悪いことが続くと、その原因をつい探します。それがよい結果を生み出すこともあるのでしょうが、そうでない場合も結構あるのではないでしょうか。坂k-の場合はワールドカップが近いのに負けばっかり続くのは、岡田監督の指導力、采配が悪いからなのだ、ということになってしまったことなのでしょう。しかたないといえばしかたないことなのでしょうけど。
 私たちが悪の原因を探るとき、私たちは決して自分が悪の根源だという結論にはならないのではないでしょうか。人から指摘されもしかしてと思うことはあるかも知れませんが。すべて私意外の他に原因を持って行くものなのではないでしょうか。そのことによって自分に安心をもたらすことになります。
 しかし私もそういうところで安心するというか、そういうところでしか安心できないのですが、でもそういう自分の在り方になぜか疑問を持つのです。こういうあり方が人を追い込んでいったり、人間勧化をくずしていくのではないかと思うのです。
 念仏を相続されてきた私たちの先輩方は、「自己を問う」ということを大切にされてきました。我が身が罪悪深重の救われがたき身だと気づき続けて良かれおねんぶつを頂かれて行かれています。
 私たちは結構人を日アンする目は確かなののがあります、その視線で、我が身をじっくり観察することこそ、大事なのではないでしょうか。阿弥陀如来様から照らされている我が身をしっかり見つめてゆきましょう。そういう歩みの中からあらゆる人々と共に歩むという大乗仏教の根本精神の大切さが思い知らされ、また念仏の尊さに気づいていけることでしょう。

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