184 御文を戴く11 5帖目第二通②

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御文をいただく 其の十一 五帖目第二通②

それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
 この文章は私たちはなぜお聖教を読むのかという事が端的に記されているところであります。後世を知るためにお聖教があるのだと蓮如上人は教えてくだされているのです。後世というのは後の世という事で死んだ後の事と理解されてもかまいませんが、もう少し広く、今より後、私の未来すべてと理解した方が現代を生きる私たちにとってはこの言葉のお心がとらえやすくなるのではないかと私は思います。私のこれからを知るためにお釈迦さまのお説教が書留められているお経様をはじめとするお聖教があるのだ、そのことを求めずお聖教を読むのは本当に勿体ない事なのですよと、私たちに蓮如上人は語りかけてくださっているのです。
 私たちはこのままのありようで生活していっても安泰なのでしょうか。現在ただ今の自分を知り、また、今までの自分の有り様振り返ると、私の未来は?何とかなるさ、と本当に言い切れるでしょうか。大丈夫ではないとお聖教は常に私たちに語りかけてくださっています。
 善導大師というお方は
「読誦大乘」と言うは、これ経敎はこれを喩うるに鏡の如し、数々又読み数々尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、即ちよく苦を厭いて涅槃等を欣樂することを明す。
と仰っておられます。自分の全部の姿というものは私たちは直接私の目で見る事ができません。私たちは一部しか見ることができてないのです。私の姿を全部見ようとすれば、私の姿を映し出してくれる道具が必要なのです。水面や鏡がそれです。私の形としての姿も一部しか知りようがありませんが、私の人生の相も同じです。一部しか知り得ていません。ただ知ったつもりでいたり、見て見ぬ振りをしているのが私たちではないでしょうか。見えていないところを、見ようとしていないところの自分ををお聖教は指し示してくださっているのです。
 私たちが知り得てなかったり、知ろうとしてない自分のすがたとはとういうものなのでしょうか。蓮如上人は良く「後生の一大事」と言う事をよく言われます。またこの御文には「後世」という言葉が何度か出てきます。このままで本当に大丈夫なのか、とお聖教が私たちに問いかけでくださり、その大丈夫ではない証拠を常に指し示してくださっているのです。お念仏を頂いていくしかない身をお聖教は私たちに鏡のように映し出してくださっているのです。
 そのことに頷き続けていく、そのことが本当に尊い事であったと気づき続けていくのがお念仏の歩み浄土往生の道なのです。

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