179 忌むと言うことを考える

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「忌む」と言うことを考える


 「年忌」や「忌中」という言葉で使われている忌という漢字を私たちは余りよい意味として使っていないのが現状ではないでしょうか。嫌うもの、タブー、はばかるもの、避けるもの、というような意味合いで使うことがほとんどなのではないでしょうか。しかし本来はどうもそういう意味であったのではなかったようです。
 辞書を調べてみると忌みという言葉には「忌み避けるべきこと。禁忌。はばかり」という忌みもありますが、もう一つ、「神に対して身を清め穢れを避けて慎む事」というようにかかれています。そしてこちらの方が元々の意味であり、転じていって、嫌う、はばかるものと言うように変化していったようであります。
 身を清めるということや、穢れを避けるということは私たちの教えに基づくとふさわしくない言葉ですが、私なりにそのことを踏まえて訳するならば、身をただして取り組んでいくという意味あいが元もとその言葉の持っている意味であったのでははないでしょうか。
 そういう視点にて年忌と言うことを考えれば嫌ったり、はばかるべき年という意味ではなく、身をただすべき年と言うことになると私は理解しています。有縁の方がいのちを終えて行かれて三年経つ、七年経つ、そういう歳隔たった今、有縁の人々が命終えていくという事実を、身をただし改めて受け止めていく、自分が生きると言うことを考える仏事が、年期法要というものなのではないでしょうか。咨嗟がもたらす、災いなどを避けたり、自分の所に幸を運んでもらうようにするための仏事ではありません。有縁の方々の死という事実をとおして我がいのち、我が人生を問い仏法に聞く行事が法事であると私は理解しています。「忌中」ということも、何かを恐れて慎んでいる期間ではなく、死という事実に目の当たりにしたとき、我が死、我が生を身をただして考えていくときが忌中という期間なのでしょう、ですから、押しつけられるものでもなく、こうしなければならないということもなく、期間も定まってなく、自らの思いに基づいて行なうものなのでしょう。

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