僧侶というアイデンティティーからの解放

いろんな人のブログを読んだり、いろんな人の話を思い出したり、そして親鸞聖人の祥月命日を迎え、色々考えています。

っていうか、今日、黒部の方までごまんさんのお話しに行かなければいけないので話すことを考えているのですが…
親鸞さんは(官度)僧としてのアイデンティティーが流罪まであったんでないかななんて思ったんです。
法難によって僧籍を剥奪され、そして僧侶から解放の道を歩んでいったのかな、なんて何となく思っているんです。
宗祖は九歳の時に出家得度されたと言われています。
これに意義と称える知人がいて私は同調しています。
いくら慈円がいたからと言って九歳で毒度できるわけがないって思うのです。
そして、また比叡山に入寺してもすぐ得度するとは限らないのではと思うのです。大きなお寺には小坊主さんみたい人がいたと思うのです。アニメ一休さんのように、その人たちはお寺に入っていわゆる修行のようなことをしているけど、ホントに毒度できているのかと言えば、違うと思います。私の記憶が正しければ当寺官度僧として認めてもらうには、興福寺や、延暦寺の許可が要る、また官度僧と言うことは国家公務員なわけだから、そうたやすく小さい未成年の子どもが毒度できるとは限らない、得度はしてないけど、出家したという人も沢山いたのでは、そういう感じが宗祖九歳の時であったのではないかと思うのです。
それはともかく、とにかく訳あって宗祖は比叡山で出家したわけです。底での歩みは、帰る場もない宗祖としては僧侶として生きていくしなかったのでは、そこで僧侶として一生懸命生きていこうという志強き人だったのでは。
僧侶としての生き方、
僧侶としてあるべき姿、
そういうものをすごく追いかけられていた方だったんではないかと、
私は想像するのです。
多分成人して官度僧となった宗祖は、いわゆる立派な僧侶として生きていこうと一生懸命歩まれていたのではなかったのでしょうか。
そういうところで「大乗」と言うことが課題になったのでは。
ということで十九歳の時、
和国の教主なる聖徳太子のお墓にこもられ、「日域は大乗相応の地」という夢告を受けられたのではないのでしょうか。
大乗の僧侶として立派になろうという歩みの中で色んな課題が、悩みが湧いてこられた。
そして、志と我が身の現実のギャップを感じて行かれた、と思うのです。
そしてまた末法の世を悲しまれた。
その中で末法のための教えとしての念仏に気づかれていかれ、
29歳の時、十九歳の時汝が命根十余歳なるべしとお告げを頂いた命根尽きる歳に今一度聖徳太子ゆかりの地、六角堂に参籠され、念仏を選び取って行かれたような気がするのです。
まだまだ官度僧としての自負心、誇りのようなものを抱え込んでおられたのではないでしょうか。また、三十三歳の時、寿像を書き写すことと、選択集を書き写すことを許された宗祖は、ある意味言葉は悪いですが、有頂天だったのではないでしょうか。
これこそ末法の僧侶の歩むべきまことの路として浄土往生の道を歩んで行かれたことなのではないでしょうか。
片州に末法を生きる僧侶として順風満帆の歩みをされているとき、
法難に出会われ、流罪に処せられたともいえないでしょうか。
悔しくて悔しくて仕方の解雇とだったでしょう。流罪にあったこと、そして僧籍を取り上げられたこと。
だからこそ、
同じ念仏を称える僧侶である曇鸞が、梁の天子に菩薩と礼拝され、神鸞と呼ばれていた、ことと自分を比べられていたことでしょう。最初のウチは。何でオレは、ッて。
だけど、流罪の地で田舎の人々と出会うことによって、
僧籍を持つ持たないと言うことにこだわることのばからしさに気づいて行かれたことなのではないでしょうか。
僧侶として立派に生きていく歩みの中で、他を悪と見たり、害としてきた自分に気づいて行かれたのかも知れないと思うのです。
僧侶としてのしがらみから解放の道を歩んで行かれた。
僧侶として念仏を頂いてくのではなく、1人の人間として念仏と向き合っていく歩みに変化されて行かれたのではないでしょうか。それが流罪以後の宗祖の歩みではと思うのです。私は。
こんなような州ぞぞうを画いて今はいます。
結局まとまらない文章に、そして質の悪いフィクション作品みたいになってしまいましたけど、ちょっと、思っていることを文字に書き留めてみました。
これをもうちょっと整理していかなければいけないのかな。
まだまだひとりごとの域を全然超えてない文章でした。

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