御遠忌という言葉を思う

二年後に宗祖親鸞聖人の御遠忌が本山で勤まる。

他派では大遠忌とも言うみたいだ。
年忌の大きなヤツって言う意味だろう。
ここ最近「忌」という時が引っかかってた。
忌み嫌う年という感じで読み取ってしまってて、なんでそんなことせなならんのや、と。

wikipediaには

忌み・斎み(いみ)とは

    1. 神に対して身を清め穢れを避けて慎む事。斎戒
    2. (転じて)忌み避けるべきこと。禁忌。はばかり。



とある。
お斎につながるのが本義のようだ。
身を清める、身をただすという意味合いの法が本来だったということを今知る。
「年忌」というものに際して、身を正す。
死別したことを身をただしていただく。
もうお会いできないことを身をただしてうけとめる
そういうような意味が、年忌、遠忌という言葉なのだろう。
宗祖として存在される親鸞聖人がお亡くなりになられて750年経つ
その事実を身をただして受け止めること。
宗祖の教えが7501年も経った今でも私の所に教えとして伝わってきている。
そのことは嬉しいこと何よりも喜ばしいこと。
だけど、
その私の所にやってきているものは宗祖の願いにかなってるものなのか、という問いが湧いてくる。疑いが起こってしまう。私は。
そのとき、宗祖親鸞聖人に直接お会いできないこと、このことが悲しい。
今わたしに教えがやってきていることは嬉しいけど、でもその中に、悲しみが見え隠れする。
いろんな人の手垢がつきまくって教えが私の所にやってきている。
それは多くの人が教えとしていただいてきたという事実でもあるけど、
つきまくった手垢によってそのものがくすんでしまっている、そう見えることも事実だろう。手垢を拭き取りたいと思うこともある、読み取るために。
私は仰せを仰せとして聞き取っているか、仰せ無きことを仰せと頂いているのではないか、
そういうことを確認する場が、御遠忌というものであるのではと思う今日この頃です。
「忌中」という意味も改めて受け止めてみなければいけない朋夫もう。
「忌」とは厳粛な言葉として頂かなね。

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