本師曇鸞梁天子

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦

<試訳>

曇鸞大師は梁の王に菩薩と頂かれ常に向き礼拝された

菩提流支に『観経』を授けられてすぐさま仙経を焼き阿弥陀仏に帰依された。

(このように、曇鸞の)自分の行と他人への教化は流れ流れて弘まった。魏主(ぎのこうてい)は彼をたっとんで神鸞といった。勅を下して幷州大寺(ビョウシュウダイッジ?)に住まわせた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)

名山に往き、(仙)方をたよりに(仙術を)おさめようとした。落下(らくよう)にあるいてゆき、中国三蔵の菩提流支に逢った。曇鸞は往って申し上げていった、「仏法の中でもし長生不死の法で此土(ちゅうごく)の仙経よりも勝れているものが有るでしょうか」と。流支は大地に唾(つばき)していった。それは何という言葉なのか。あい比べるどころのものではない。此方(このよ)の何処に長生の法があるのか。たとい長生(ながいき)できても少時(しばらく)死なないだけだ。結局こもごも三有(さんがい:欲界色界無色界)に輪廻するだけだ」と。すぐに『観経』を授けていった、『これは偉大な仙方である。これによって修行したならば、きっと生死を解脱することが出来よう」と。曇鸞はついで頂礼をして受けた。持ってきた仙方はみな火で焼いた。(『続高僧伝巻六』大乗仏教中国日本編14高僧伝:中央公論社刊71)

魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおわしける
ようやくおわりにのぞみては
汾州にうつりたまいにき

魏の天子はとうとみて
神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる

本師曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき

:(りょう、502年 – 557年)は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝 天子:祖武帝をさす、蕭衍(しょうえん)は南朝梁の初代皇帝、皇帝菩薩」とも称された。熱烈な仏教徒だった。 :曇鸞をさす 三蔵流支:菩提流支をさす。北インド出身の僧。サンスクリットのbodhiruci、बॊधिरुचि (skt.) の音写、「菩提留支」とも音写する。北魏の都、洛陽で訳経に従事。大乗の経論を30部余り翻訳する。また漢訳して「道希」とも呼ばれる。無量寿経如来会、『浄土論』を訳す 淨教:浄土の教え、観無量寿経共『浄土論』を授けたと言われている。 焚焼(ぼんしょう):もやすこと。たくやく 仙経:仙人が伝える経典、当寺盛んだった同教の経典、長生きの法 楽邦:極楽邦国、すなわち阿弥陀仏の浄土

神鸞と親鸞  

魏の天子はとうとみて神鸞とこそ号せしか
おわせしところのその名をば
鸞公厳とぞなづけたる

 竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。ここをもって興福寺の学徒、  太上天皇 諱尊成、今上 諱為仁 聖暦・承元丁の卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。  主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。

 これに因って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥りがわしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。  皇帝 諱守成 聖代、建暦辛の未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて、入洛して已後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまいき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午の時、入滅したまう。奇瑞称計すべからず。『別伝』に見えたり。(教行信証後序 聖典398)

曇鸞大師476~542

出家後四論(中論・十二門論・大智度論・百論)と仏性の研鑽に従事したと言われる。その後大集経の注釈を志すが、途中病で倒れる。
しばらくして、長寿を説く仙経を求めて当寺道教の大家、陶弘景(とうこうけい)を訪ねた。仙経十巻を授かり、気と、落陽において菩提流支と出会う。彼に長生術を誇るが、それは迷いの境界における上寿に過ぎないので結局迷界の流転を免れないと教示を受けて、観無量寿経(1sつに半城土論)を授かった。


コメントする