176 御往生

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御往生
先月、在所で百歳を超えたお婆ちゃんが亡くなられた。このおばちゃんは私にとって最後の昔からのお婆ちゃんだった。別の言い方からすれば小さい頃からお婆ちゃんだった、もうそういう人は私の周りにいない。大概、今お婆ちゃんをされている方、お婆ちゃんらしい人は昔私からすれば、アネハンやったり、オッカッチャンやった。だけど今は…、そんな人がいまはお婆ちゃんになっておらはる、でもその人は私の中ではお婆ちゃんの姿しか記憶にない。
縁ある人の死を迎えるとその人との出会いが思い出される。後ろでお参りされているときの姿。草またいされている姿。いっしょにお茶を飲んでいるときの姿、お茶といっしょに頂いた漬けもんの味、笑い顔、その他色々…。縁が深ければ深いほど色んな出会いが思い浮かんでくる。
もう自分の中に遺る思い出の中でしかあえない、その人と。そしてその思い出からこれから私をいろんなことを導いて下されることだろう。だから亡くなった方を仏さんといってこられたのだろう。浄土に生まれられるといわれてきたことなのだろう。これから私をお浄土へ導いて下される方だからこそ、浄土往生間違いないことだ。
でも私たちは何気なく長生きされて亡くなっていかれた方を「大往生だった」という言い方を使う。その言葉が少し気になる。そういう言い方をすることが悪いわけではないけど。自分たちが往生を評価していることが気になるのだ。阿弥陀の浄土はひとつしかない。だから大小はない、なのに…。反対に幼くしてこの世の生を終えていかれた方を小往生とでもいうのだろうか。思ったより早くこの世を去っていかれ残された私たちにとっては本当につらい別れだけど。小さい往生なのだろうか。そういう死からこそ世の無常の事実を我に力強くお教えくださる。そういう意味で尊いこと。
往生は大いなること、大いなる往生ということなら理解できる。そういう意味では誰の往生も大往生だ。死に方で往生が変るわけでは決してない。
私たちが気にしなければならないのは亡くなられた方の行き先、評価ではない。先輩方は浄土に行かれたといわれているのだからその言葉を頂いていくしかない。死後のことを考えることは我等の限界を超えていることなのだ。私たちが大事にしていかなければならないのは亡くなった人のことではなく、私が往生されていかれた方から何を聞き取っていくか、何を学んで聞くかということだと思う。我が身の往生のことこそが一大事なのだ。
大谷暢顯御門首による帰敬式が執り行われます
帰  敬  式(おかみそり)
受式者募集中
とき 2010年4月24日(土)午後3時30分より(受付は11時より)
場所 井波別院瑞泉寺(南砺市井波3050)
問い合わせ 真宗大谷派 高岡教務所(高岡市丸の内2-15 ℡0766-22-0464)

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