帰入功徳大宝海

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死園示応化

<試訳>

かくして大いなる海のように功徳が充ち満ちている念仏を頂けば自ずから阿弥陀仏が今なされている説法を聞くことができ、やがて浄土の世界ににいたり、ただちに佛の証りを得るものとなり、煩悩に満ちた迷いの世界もどり仏のはたらきを思いのままあらし、浄土へ導いていくのである

仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、
能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむ。(『浄土論』聖典137)

入第一門とは、阿弥陀仏を礼拝したてまつりて、かの国に生まれんとするをもってのゆえに、安楽世界に生まるることを得、これを入第一門と名づく。入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆したてまつりて、名義に随順し、如来の名を称し、如来の光明智相に依って修行するをもってのゆえに、大会衆の数に入ることを得、これを入第二門と名づく。(『浄土論』聖典144)

入第三門とは、一心に専念し作願して、かの国に生まれて奢摩他寂静三昧の行を修するをもってのゆえに、蓮華蔵世界に入ることを得、これを入第三門と名づく。入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修するをもってのゆえに、かの処に到ることを得て種種の法味楽を受用す、これを入第四門と名づく。(『浄土論』聖典144)

出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに。これを出第五門と名づく。(『浄土論』聖典144)

功徳大宝海…大いなる宝を海のように恵む恵み、弥陀の本願力よりおこる念仏

大会衆…阿弥陀仏が浄土で今現に説法なさっておられる会座にいる人。弥陀の説法を聞いている人
蓮華蔵世界…華厳経に出てくることばで、諸仏の浄土をさすことば。ここでは弥陀の浄土をさす。
真如法性の身…真如と法性は同義で人間の腹会を越えた本来の世界、涅槃のこと涅槃にかなった身、仏身のこと
…思いのまま、自由自在
煩悩の林…煩悩がはてしなく茂る林、私たちが今生きている世界
神通…神は不思議を意味し、通は力・働き、仏菩薩の計り知れないはたらき。
生死の園…生き死にの矛盾に悩む苦海、迷いの世界
応化…仏菩薩が衆生救済のために衆生にあわせた身となって現れること
今現在説法

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。(『歎異抄』聖典626)

これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。(『阿弥陀経』聖典126)

たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。(『大経』聖典18)
我、仏道を成るに至りて、 名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、 誓う、正覚を成らじ。(『三誓偈』聖典25)

咨嗟…ほめ称える
弥陀の説法を聞いた大会衆(仏菩薩)は弥陀ほめ称えた。
その声を私たちは聞いている。 弥陀の説法は過去のことかも知れないけど、その教えを聞いたものが弥陀を讃嘆する声は今まだ私の前で響いている。
弥陀の説法→本願を信じよ。本願を信じなければならない身がおまえだ。
私たちはすでに弥陀の説法を聞いている。少なくとも弥陀の説法を聞いた諸仏書菩薩が弥陀を讃嘆する声ー念仏ーを聞いている。
弥陀の説法を弥陀の説法として受け止められていない私たち、
今現在弥陀が説法されている現実に気づいていない私たち
我が身が明らかにならないから弥陀の本願を頂けない私

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