175 覚醒剤を使用する 気持ち

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 最近芸能人が覚醒剤所持などの容疑で相次いで逮捕されたということがあってか、テレビなどのマスメディアでは覚醒剤などの特集を繰り返し放送している。それによると覚醒剤を常習すると脳神経を刺激し、その感覚を忘れることが出来ず、覚醒剤を依用したいという意識は死ぬまで取り除けないものなのだということを放送していた。一言で言えば本当に恐ろしい薬と言えることなのだろう。また私には意識はないけれども私たちの本当に身近なところにまで覚醒剤などがやってきているそうだ。ちょっと感覚を澄ませば覚醒剤を手に入れようと思えば簡単に手に入る環境になってしまっているらしい。本当に恐ろしいことだ。
 また、覚醒剤などの使用を防止するためににか、覚醒剤を所持したり使用したりして逮捕されると一般の社会人として生活していけないということも、何度も何度もいっている。また芸能人の逮捕者などは見せしめみたい感じでも扱われている感も否めない。覚醒剤などを使用する犯罪についてもう一つ大事にしていかなければならないのは、覚醒剤をやめたいと思っているけれどもやめることの出来ていない人たちのケアーだと思う。ただ単に犯罪者に仕立てていくだけではいけないような気がしてならない。
 私は覚醒剤を一人でも使用する人を減らすために私たちが理解していかなければならないことは覚醒剤などを始めるときの気持ちではないかと思う。単なる興味だけから始める人はほとんど少ないそうである。端的な言葉で言えばすっきりするために始める人が多いそうだ。「これでいいのだろうか」というような不安からくる心にガスのようなものがかかった状態を何とかするために始めるそうだ。不安を亡くしたいという誰にでも持っている気持ちから覚醒剤を使用しようという気持ちになっていくということになる。そういう意味で言えば誰でも覚醒剤を始める種を持っているということになる。覚醒剤をやっているのは特別、特殊な人たちと見て行くのではなく、自分と同じ心を持つものとしてみていくことが大切なことなのではないだろうか。
 私たちは悶々とした思い、これでいいのだろうかという不安心をなくそう、すっきりさせようとしてしまうものです。しかし念仏を称えられてきた先輩方は、すっきりするために努力されてきたのではなく、悶々としている元を訪ねて行かれています。なくそうとされたのではなく向き合って行かれたのです。その悶々している心をたよりに自らを見つめていかれ、念仏を称えなければならない我が身に気づいて行かれています。
 悶々とした心をなくしすっきりしたいいのならば、コカコーラやサイダーを飲んだり覚醒剤に走るしかないでしょう、しかしどの方法も一時的なものであったり、その場しのぎ的なものでしかありません。どれも特効薬ではなく感覚を麻痺させるに過ぎない道具です。
 もし悶々とした思いと真向かいに向き合いたいのなら、念仏の歴史の流れにはいり身を任せることが一番良いことでしょう。そして悶々とする気持ちの大切さに気づき、心から念仏を称えることが出来ることでしょう。

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