顕彰ということを再び考える

今日午前中地域の戦没シャツと上、というか、忠魂堂慰霊法要があり、参加してきた。

最初住職になったときはあえて用事を探して、欠席していたが、そういう抵抗を最近やめて参加してる。
ちなみに二年に一回仏式で執り行われるということになっている。
いうまでもなく気が重く参加してきた。
まず、気づいたことは先回の時より参詣の方々が見て判るぐらい少なかった。ということ。
時間が経ったといえばそうなんでしょうが、これでいいのかとも考える。
また、挨拶や追悼の言葉では「平和」「二度と戦争を繰りかえさない」という言葉がほとんど聞こえなかった。そういうことを気にしながら読経していた。
ヤッパリ「顕彰」ということを考えた。
顕彰することはいけないとは最近は思わないけど、
何に基づいて顕彰していくのかということをはっきりさせていかないと行けないと思う。
ただ短私たちのために亡くなられたことをほめ称えていくのではなく、
いのちの大切さ、死に別れていくことの悲しさを教えてくださった方としてほめ称えていかいといけないと思った。
またただ単にほめ称えていくのではなく、そのために自分は同素のことを表現していくのか、イメージしていくのかということが大事だと思った。
形ではなく、イメージしつづけていくこと、問いかけに応えていくことこそ、大切なことなんだと。
このままで行くと、戦争によって人と死に別れしていくことの寂しさ、悲しさ、いかり、そうかんじるひとがどんどんすくなくなっていくことだろう。いわゆる「遺族」といわれる方々もホント、どんどん減って行かれることなんだろう、
この悲しさ、悲しさ、怒りを私たちの寳として伝えていかないとならない、そう感じました。

「顕彰ということを再び考える」への2件のフィードバック

  1. こんにちは。
    お元気ですか。
    重い夏も終わります。
    政権が変わりますね。
    私達の生活はたぶん、変わらない。
    そんな気がします。
    また、夢織りへお越し下さい。
    お酒少し飲めるようになりました。

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  2. さよさんおひさしぶり
    私もそんな生活は変らないような気がしてならないです。
    でも、議員と官僚の関係さえ替えてくれると、それがいつか生活が変るきっかけになるんで張っていう期待はありますけど、
    リップサービスっていうか、私たちに媚びているだけのような気がしてなりません。
    いつになるか判りませんが、また欲界日立ち寄ったときにはよらさせていただきます。
    いっしょに酒をあおりたいですね。

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