174 異常を考える

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 先月七月はよく雨が降った印象が強いですね。ご存じの方も多いと思いますが、寺の横にあるうちの畑も畑というよりは草原になってしまいました、これは今年に限ったことではなく毎年のことかも知れませんが…。雨ばっかり降って雑草の成長が早い、雨が降るから畑に行けず草が刈れない、そういうことの繰り返しで大変なことになってしまってます。雨のせいで畑がこうなってしまったのだと雨だけのせいにしたい思いが強いです。そういうことを言い訳に出来るぐらい本当に雨の日が続いた月が七月ではなかったでしょうか。つい「異常気象」と言いたくなります。
 異常という言葉はつねと異なる、いつもと違うという意味ですけど、でも私が思う常、当たり前というのは本当に常のことなのでしょうか。今年はいつもと違う天気だと私たちは言うわけですけど、私たちが言う「いつも」というのは私たちが経験している間のいつもでしかないのではないでしょうか。私の経験の中だけで私が勝手に判断したいつもでしかないのではないでしょうか、私の人生の中ではいつものことなのかも知れませんが、もっと長い歴史、人間の歴史を≒にしてみれば、また地球の歴史という視点で考えればそれは本当にいつものこと言えることなのでしょうか。私が異常と思っていることが実は長い歴史の眼で見ればいつものことであり得ると言うことがあるかも知れないのです。
 このことは気象現象についてだけに当てはまる話しというわけではないのではないでしょうか。すべてのことに於私が思っている当たり前の事というのは私の経験で想像しているものに過ぎないのかも知れません。そして自分の想像にしか過ぎないことにも気づかず、人に押しつけたりいろんなことを自分の抱え込んでしまっている私の常識で善し悪しと判断していることが多いのではないでしょうか。
私が判断している善し悪しと言うこともその奇人が私の少ない経験の中から師は判断していない、私の善し悪しの編んだんも結構あやふやなことと言えるのかも知れません。
 私が抱え込んでいる当たり前をホンモノの当たり前にしていこうとするときは、私のあやふやさに頷き続けていくことが何よりも大切なことだと私は思います。そして自分と立場の違う人と相手を認め合いながら対話して他の人が抱え込んでいる常識に出会っていくことからしか始まらないのではないでしょうか。
 善導大師というお方は「経教はこれ鏡にあとうるなり」と教えてくださり、お経に書かれているお釈迦さまの教えを聞くことによって私の無明なるすがた、自分の愚かさに気づいてゆきなさいとお教えくださってます。自分の抱え込んでいる常識は間に合わない、自分にとって都合の良いものだと言うことを経典を良く事を通して、また私に先立って念仏を称えてくださっている方と出会うことを通して気づいてゆき、真実へ近付く歩みをあきらめず少しずつすすめて行かなければならないことだと思うのです。

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