顕示難行陸路苦

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

<試訳>
龍樹菩薩は難行は陸路を一人で歩むように苦しいことをあわわし水路をみんなで船に乗って渡るような易行を自ら信じられました
阿弥陀仏の本願を忘れず念ずる易行の道をすすめば、そのとき、自ずから当たり前のように、必ず悟りをひらくことが定まるのである。
ただ、よく、つねに、阿弥陀仏のみ名を称えるという如来大悲の広い誓いに報い応えていこう。と導いてくださっています。

佛法に無量の門有り、世間の道に難有り易有り、陸道の歩行は則ち苦しく、水道の乘船は則ち樂しきが如し。(易行品『聖全』254)

人能く是の佛の無量力功德を念ずれば 即の時に必定に入る 是の故に我常に念じたてまつる(易行品『聖全』260)

憶念…憶は憶(こころ)持(たもつ)、念は明記不忘。心にたもって忘れず、恒に思い出すこと

自然…「自然というは、自はおのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむるということばなり。然というはしからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。『末灯鈔』」
即…すぐさま
『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)は仏教の論書であり、17巻。著者はインドの仏教学者龍樹(りゅうじゅ)である。5世紀初め鳩摩羅什(くまらじゅう)が訳した漢訳のみが現存し、サンスクリット原典もチベット訳も伝わっていない。
現存する漢訳は、偈頌と散文とでできており、偈頌の内容を散文で解説している。しかし、散文の部分については龍樹作とすることに疑問がもたれている。
鳩摩羅什は、インド僧仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)が口誦したものを漢訳したと言われている。しかし、翻訳について両者の意見が対立して未完に終わった、と伝えられている。これは、鳩摩羅什の翻訳方法が、多分に彼自身の解説や、彼自身が記憶する仏典を交えながら翻訳する形態を採っているので、散文にはそれが多分に入っていると考えられる、
本書は華厳経の一部の『十地経(じゅうじきょう)』の注釈だが、大乗菩薩の思想と実践を『十地経』に依拠して説いたものである。
後世、浄土教の念仏易行道(ねんぶついぎょうどう)を説く一章「易行品(いぎょうぼん)」がとくに注目され、この章についての研究は多いが、全体としての研究はほとんどない。
龍樹の『菩提資糧論(ぼだいしりょうろん)』との関係も深いので、大乗仏教を理解するうえで、きわめて重要な論書である
問て曰く。是の阿惟越致の菩薩の初事先に説くが如し。阿惟越致地に至るには、諸の難行を行ずること、久しくして乃ち得べし。或は聲聞辟支佛地に墮す。若し爾らば是大衰患なり。(易行品)
問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。(現代語訳)
仏教における二乗(にじょう)とは、声聞乗(しょうもんじょう、Śrāvakayāna)と縁覚乗(えんがくじょう、Pratyekayāna)の二つを指していう用語。「乗」とは乗物の意味で、声聞や縁覚の人びと、あるいはかれらの立場を意味する。
二乗は、現世に対する執着を断った聖者(阿羅漢)ではあるが、大乗仏教からは現実逃避的・自己中心的であり、利他の行を忘れたものとして「小乗」と蔑称される。直接「小乗」と名指しで非難されたのは、西北インドに勢力を有した説一切有部や犢子部(とくしぶ)などのいくつかの部派であったようである。『大智度論』では、小乗と呼ばれた彼らは大願も大慈大悲もなく、一切の功徳も求めようとせず、ただ老病死の苦から脱することのみを求めるとされている。
大乗仏教では、「二乗の者は地獄にさえ堕ちない」と言われることがある。これは、地獄に堕ちた者はふたたび生まれ変わって大乗の教えに回入するかもしれないが、地獄に堕ちない者はふたたび仏の教えに逢うことはないので、成仏することはないという意味で、二乗は仏になれないと非難されているのである。
声聞 (しょうもん、サンスクリット:श्रावक Zraavaka)は、仏教において「教えを聴聞する者」の意で、初期経典では出家・在家ともに用いられる。後になると出家の修行僧だけを意味した。
声聞には、上から阿羅漢果(応供)・阿那含果(不還)・斯陀含果(一来)・須陀洹果(預流)の4つの目標(「向」)と、それに応じた4つの結果(「果」)があるとされ、これを四向四果という。
大乗仏教の立場からは、声聞は、主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であるとして、小乗と貶称される。
縁覚(えんがく、pratyekabuddha、paccekabuddha、サンスクリット:प्रत्येक बुद्ध)とは、仏教やジャイナ教において、師なくして独自にさとりを開いた人をいう。旧訳ではサンスクリット原語あるいはその俗語形からの音写で、辟支仏(びゃくしぶつ)と訳す。また独覚とも漢訳される。
仏教では、十二因縁を観じて理法をさとり、あるいはさまざまな外縁によってさとるゆえに縁覚という。独覚は、仲間をつくって修行する部行独覚と、麒麟の一角の如く独りで道を得る麟角喩独覚とに分ける。大乗仏教ではこの立場を自己中心的なものと考え、声聞とともに二乗と呼んで下に見る。

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