釈迦如来楞伽山

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 

龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 

 <試訳> 
釈迦如来は楞伽山において「南インドに龍樹というものが現れ、かれは死後の世界の有無にとらわれて濁ってしまった仏教を破り、大いなる乗り物のとしての仏教を回復し、菩薩となり、あらゆる人々と共に浄土に生まれていくであろう」と人々にお告げになられました

<我が乗、内証の智は、妄覚(もうかく)の境界に非ず。如来滅世の後、誰か持(たも)ちて我がために説かん未来に当に人あるべし。南天の国中において、大徳の比丘あらん。龍樹菩薩と名付けて、よく有無の見を破りて、人のために、我が乗、大乗無上の法を説き、初歓喜地に住して安楽国に往生せん。(『楞伽経』)


ナーガールジュナ
(naagaarjuna, Nāgārjuna)、漢訳名龍樹(りゅうじゅ)は150‐250年ころ(生没年不詳)のインド仏教の僧。八宗の祖師。真言八祖(しんごんはっそ)の一人であり、また、浄土真宗七高僧の第一祖。密教系の仏教では龍猛(りゅうみょう)と呼ばれることもある。
名前はサンスクリットで、ナーガは蛇(蛇神転じて竜)、アルジュナはインド神話のマハーバーラタに登場する武将から(転じて英雄の意味もある)。日本では漢訳名の龍樹で知られる

大乗仏教

大乗仏教(だいじょうぶっきょう、Mahāyāna Buddhism)は、伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつ。自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件とし、この「利他行」の精神を大乗仏教と部派仏教とを区別する指標とする。
大乗(Mahā〈偉大な〉yāna〈乗り物〉)という語は、『般若経』で初めて見られ、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った説一切有部を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって理論付けされたとされる。
一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極においてみずからはどこまでも釈迦の教えの信奉者というにととどまるもので、自身が「ブッダ」(如来)として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。
自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは大乗以前の仏教界で行われていたものではない。紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応えることができなくなっていたとされるが、出家者ではない俗世間の凡夫でもこの利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色である。声聞や縁覚は人間的な生活を否定して涅槃を得てはいるが、自身はブッダとして新しい教えを告げ衆生の悩みを救える、というわけではない。が、大乗の求道者は俗世間で生活しながらしかも最終的にはブッダに成れると主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創りだしていった。

有無の見(有見→常見  無見→断見)

常見(じょうけん)とは、仏教用語で、この世は永遠に続くもので不滅であるとする見解のこと。反対語は断見(だんけん)。
原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間やアートマン(梵我)が永遠に存続すると主張したものである。「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む。
人の一生・人生はこの世の一回限りであるが、死後もこの世界においてアートマンという固定の実体が不滅で永続するものであると肯定する見解をいう。『長部』では「我と世界は常住である。死後山頂の如く不動で石柱の如く固定したものである」などと述べている。
常見の反対語は、断見といい、この世は永遠で永遠のものではないという見方であるが、仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。
なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、対立する見解とは違う次元で、如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。

 断見(だんけん)とは、因果の法則を無視して、人が一度死ねば、断滅してしまい二度と生まれることがないとする見解のこと。反対語は常見(じょうけん)。
原始仏教、つまり釈迦が在世の頃にあった六十二見のうちの1つで、この世界・世間や我の断滅を主張したものである。「見」とは見解・意見・見方のこと、あるいは邪見や執見との否定的な意味も含む。
人の一生・人生はこの世の一回限りであるとして、死後やその運命を否定して、この世における善と悪の行為やその果報を無視し否定する見解をいう。『長部』では「肉体は壊れることにより断滅し、死後は存在しない」と述べている。
断見の反対語は常見といい、この世は永遠で不滅であるという見方であるが、仏教では中道や無記を説き、両方の偏った見方に依らない、不断不常の中道を宗旨とした。
なお、大乗仏教の教義が発展すると、不断不常の中道から、対立する見解とは違う次元で如来我すなわち仏性の常住を説くようになった。
龍樹菩薩→大乗の組

本師龍樹菩薩は
  智度十住毘婆娑等
  つくりておおく西をほめ
  すすめて念仏せしめたり

大乗仏教の真髄として念仏がある

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