171 非僧非俗

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 5月14日から15日まで富山市内で北陸連区差別問題研修会が「戦争と性」というテーマのもと開催され、私も全日程参加いたしました。テーマについても色々学ばせていただき考えもさせられました。
 その中で講師のお一方が非僧非俗の非ということは解放されたと言うことだ、と教えてくださいました。私はその言葉にびっくりしました。私の思いの中では想定外の言葉だったからです。
 非僧非俗という言葉は宗祖親鸞聖人が自らの立場を語られたお言葉です。親鸞聖人は29歳の時、承元の法難により京都にお住みになられていましたが、越後の国に流罪にお遇いになられました。そのとき僧籍も剥奪されたのです。比叡山の僧侶であった親鸞聖人は公の僧侶、朝廷が認めた僧侶ですので僧侶のまま流罪に科することが出来ないため、まず僧籍を剥奪して俗人したわけです。そのことを縁として親鸞聖人は我は僧籍を朝廷より剥奪されたので僧侶ではない、だからといって俗人でもないのだと、自らの立場を「非僧非俗」と表現されたのです。
 そのことを講師の方は僧侶から解放され、俗人からも解放されたのが親鸞聖人だと教えていただいたのです。私の思いの中では僧籍を奪われたけども私は真の僧侶として仏道を歩んでゆくんだという反骨精神に近いものだと思っていたのですが、講師の方はそうは説明されなかったのです。俗人というカテゴリー(部類)でもない、僧侶というカテゴリーにも属さない、またそのことに執着しないものとして、まことの自由人として、まことの独立者として歩む決意が「非僧非俗であると教えてくださったのです。
 その言葉を聞いて私はドキッとしました。何かはっとして回りが明るく感じた思いがしました。
 宗祖親鸞聖人はあらゆることから解放され続けようと歩まれた方、あらゆることに執着しない、とらわれない生き方を念仏を称えられながら目指された方だったんだと知らされたひとときでありました。

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