170 御文をいただく 其の八

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五帳目第一通⑧
 称名の称という字は私たち念仏の歴史の中にいるものは簡単に「となえる」と読んでいきますが、どちらかといえば本来は「たたえる」と読む場合の方がおおような気がします。また漢字が出来上がった歴史を訪ねていくと「はかる」という読み方が基本なのかも知れません。
 称名ということは声に出してなをとなえるということなのですが、ただ声に出して称えていれば終わることではなく、名にかなうように、名に近付くように称えていくことが漢字の意味を尋ねていくと大切なことでしょう。自分が助かっていく道具として念仏を称えていくということではなく、念仏によって救われていくのだ、阿弥陀の摂取不捨というすべてのものを摂めとり捨てないという広い願いによって、如来の大いなる悲しみによって私がたすかっていくのだと心に刻み阿弥陀如来の名を、南無阿弥陀仏ととなえていくことが大事なことなのでしょう。それが唱名でなく称名の所以なのでしょう。
 蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきものなり」と勧めてくださっています。それは義務という意味ではなく、阿弥陀の本願に出会ったとき私はつねに、いのち終わるまでいつもかも念仏を称えて行かなければならない我が身ということが明らかになってくる、ということを教えてくださっているのです。
 念仏に出会い自分自身では知り得ない本当に我が身を知っていくことが私たちには大事なことです。

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