裁判員制度

先週の土曜日教区の事業で裁判員制度の学習会があった。
裁判員制度は問題であると感じているけど、もう一つ、裁判員制度にして行かざるを得ない私たちの課題、っていうものが聞きたかった。裁判員制度が始まっておこる私たちのメリットというものを知って裁判員制度について反対していこうと思ってた。
裁判員制度について反対する方のお話しだったのであたりませなのかも知れないけど、この裁判員制度っていうことについての絶望視か感じ取れなかった。メリットを質問で聞く元気も全くなくなってった。
裁判員制度を始める目的は、
1998年の自民党司法制度特別調査会の報告によると、「安全な国民生活の確保と構成で円滑な経済活動という国民の基礎を支え」ることのようだ。
司法制度が問題だから替えるっていう訳でないってことのようだ。
また2001年の政府の司法制度改革審議会の意見書には、「基本的人権」という言葉は一度も出てこないし、「民主主義」という言葉は一度しか出てこないそうな。またこの審議会は二度しか開かれていないという形だけの審議だった感じ。
どうも統治者の立場からの改革っていう感じ、私たちの必要性ってことはどうでも良いことのようだ。
どうも破綻しそうな「新自由主義」政策遂行による治安悪化、社会不安の弥縫策なそうな。
そのために審議機関の短縮(裁判員制度とは関係ないけど)と、刑事事件でも重大事件(死刑や無期懲役刑になりそうな事件・故意の犯罪行為によって被害者を死亡させた事件)にのみ裁判員制度が導入されるみたい。
原則裁判官三名、裁判員6名で審議されるそうだけど、法律に対して無関係な者がどれだけ関わっても裁判官中心で審議が進むのは目に見えてる。その中で行政からにらまれてる裁判官が死刑を誘導し、おまえたち国民が死刑を選んだんだって言いたいんだろう。また死刑を連発して悪いことするとこうなるんだという見せしめをしておいて治安を安定させていこうということなんだろう。
国民が国民を監視ししあい、コクミンが国民を裁いていくという閑散とした、ギスギスした国を造ろうとしているようだ。

人が人を裁くということで一番気にしなければいけない免罪ということをどれだけ意識した制度なんだろう。審議期間短縮ということによって、公判前準備手続きによって情報が管理される中でえん罪は絶対に増えないと断言できるのだろうか。

テレビの報道に踊らされやすい私たち、意図された情報管理によってでしかものを考えることを許されてない私たちが、どれだけ正確に人を裁くって言うことが出来るのだろう。
最悪深重煩悩熾盛の私たちが何の訓練も受けず人を裁くっていうkトオノ譏嫌はないのだろうか。
訓練を受けてきた裁判官が審議してきても、どれだけ公正に裁判しようと心がけている人たちがやってもえん罪事件が起こっているんだから、なおさら私たちがやると…
まだ裁判官が裁くっていうことの方がましなような気がする。

何よりも裁判員になるっていうのは私たちの権利として勝ち取ってきたものではなく、義務として押しつけられようとしていることだ。何かそのところが非常に怖い。

裁判員制度が始まることによって審議が短縮されるということが国にとっても、私たちコクミンにとってもメリットといえばメリットなんだろうけど。
私たちは知らない、他国と比べると本当に審議が遅いのか。
他国でのえん罪防止策。
しっかり知らなければならない。

それよりも何より思ったこと。
こういう悪性度が始まる一ヶ月前になって私はやっとこの制度の怖さを知る。
何故もっと前に気づかないんだろう。
政治に対する無関心さ。
そういうことを思い知らされる。
統治者を監視していくっていう意識を私たちは持たないといけないと思った。
統治者は政治家は、私たちコクミンのために何もしない、自分たちの都合の良いように制度を変えていくと、今のままの私が統治者になっても同じことをすることも。
忘れてはいけない。

そういえば今朝ポストの中を見ればナムナムシンポジウムの案内が入ってました。
参加できるかどう勝手いうのは微妙なんですけど
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