一切善悪凡夫人

一切善惡凡夫人
聞信如來弘誓願
佛言廣大勝解者
是人名分陀利華

<試訳>
すべての善悪に縛られている人々が阿弥陀仏の本願を聞いて信じれば佛は本当に広く理解したものと言われる。そのひとを汚泥に白く気高く咲く分陀利華と名付けられる。

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。(第十八願成就文…大無量寿経巻下)

一切善悪の凡夫、生まるることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁とせざるはなきなり(玄義分)

もし善男子善女人、彼の法の中において広大勝解の者(如来会)

もし念仏する者は、当に知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友と為りたまう。当に道場に坐して、諸仏の家に生ずべし(観無量寿経)

善悪と価値観と、覚者か凡夫人かという価値観
凡夫→一般人、一般でない→覚者、仏陀
八正道の正見

正見 (Wikipedia)

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪と
を離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身の
うえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi,
sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常
性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれ
る。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。

無明無知の者が判断する善悪
無上なる者が判断する善悪

屠沽下類刹那超越成仏之法可謂一切世間甚難信也 屠は謂わく殺を宰どる、沽はすなわち醞売、かくのごときの悪人、ただ十念に由ってすなわち超往を得、あに難信にあらずや、と。

顕浄土真実信文類三

悪人とは差別する言葉 我が身のことがわからないものが他に発する言葉

我が身を正見することによって弥陀の誓願を聞信できる 浄土往生が約束される
知恵の照によって我が身の無明が明らかになる
我が身の罪悪を肥やしとして知恵の白蓮華が育つ

蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経〈ゆいまきょう〉』というお経から、次のような経文を引用なさっています。
「高原の陸〈ろく〉地〈じ〉には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥〈おでい〉に、いまし蓮華を生ず。」(『真宗聖典』288頁)
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼のなかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのかがわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと教えられています。
 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言われているのです。何ともありがたいことです。(http://www.tomo-net.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge29.html)

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