すすめる心

昨晩ある組の同朋の会があってお話ししてきたせいか、また眠れず今ここに座っています。
その会である方から質問、
さわりを外にあると感じている人に対してあまりにも素っ気ないのではないか、だから他の宗教にいくのでは、そういうことがお寺と「門徒」の溝としてあるのでは、なんて言うことを後から考えればされていた質問を受けた。
そのときはそういうふうになかなか聞くことが出来ず、的外れな答えを今思えばしていた。ちょと反省。
霊を怖がる人々に対して、災い、祟りを現実に怖がっている人に対して私は今まで簡単に否定しすぎというよりは、簡単に聞き流していたのかな。そう思う。
見下していたのかも知れない、そういう人たちを。
せめて念仏を、南無阿弥陀仏を称えることはすすめることが出来たのでは、と遠い昔を後悔する。

民衆仏教としての真宗と言うことが、私の上に欠如しているようです。

私たちはたまたま専修念仏の教えに出遇い源に歩んでいる。
自分が外にさわりを探していた頃のことを忘れてしまっている。今も自分自身がさわりだと思ってなんか生きてはないのに。
何故か自分は信を獲たエライ人で信を獲てない迷っている人に対して見下してものを考えている。
そういう自分に今出会わせてもらった。同朋の会での質問を今やっと思い出し
自分は何を聞いてきたんだろう。

自分の抱え込んだ真宗を自分の言うことが判ってもらえる人にだけ判るように語っていたのかな。今まで。
あらゆる人々に南無阿弥陀仏と念仏を称えてもらうことも私の大事な仕事です。
また、あらゆる人々に念仏を称えてもらいたいと強く願わない、勧めることを全くしていない自分の信ていうものは何者なのか!
落ち込む私です。
一昨日階段から滑り落ち、昨日法事をすっぽかして落ち込んでしまっている私、そん中、また落ち込んでいるフリをしています。
今思っていることを来月の同朋の会で、めっちゃ整理をして今一度話しをしてみたい。

コメントする