獲信見敬大慶喜

獲信見敬大慶喜
即横超截五惡趣

<試訳>
心より念仏を称えることが出来るようになれば、真実を見て大きな喜びに満たされる。
そのとき堂々巡りの迷い人生から信心のはたらきによって裁ち切り越えることが出来る。

一切善惡凡夫人
聞信如來弘誓願
佛言廣大勝解者
是人名分陀利華

<試訳>
すべての善悪に縛られている人々が阿弥陀仏の本願を聞いて信じれば佛は本当に広く理解したものと言われる。そのひとを汚泥に白く気高く咲く分陀利華と名付けられる。

<尊号真像銘文>
「獲信見敬得大慶」というは、この信心をえて、おおきによろこびうやまう人というなり。大慶は、おおきにうべきことをえてのちに、よろこぶというなり。
「即横超截五悪趣」というは、信心をえつればすなわち、横に五悪趣をきるなりとしるべしとなり。即横超は、即はすなわちという、信をうる人は、ときをへ
ず、日をへだてずして正定聚のくらいにさだまるを即というなり。横はよこさまという、如来の願力なり。他力をもうすなり。超はこえてという。生死の大海を
やすくよこさまにこえて、無上大涅槃のさとりをひらくなり。信心を浄土宗の正意としるべきなり。このこころをえつれば、他力には義なきをもって義とすと、
本師聖人のおおせごとなり。義というは、行者のおのおののはからうこころなり。このゆえに、おのおののはからうこころをもったるほどをば自力というなり。
よくよくこの自力のようをこころうべしとなり。

信-梵語→シュラッダー(心を澄んだ浄らかなものにする作用)
●濁っていて見えなかったものが見えてくる→真実が見えてくる
 

信の証、
決定往生の徴(しるし0)教行信証後序
  選択の書写、真影の図画

仏のちかいをもきき、念仏ももうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。『親鸞聖人御消息集(広本)』

としごろ念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ、世をいとうしるしにてもそうらわめとこそ、おぼえそうらえ。よくよく御こころえそうろうべし

●この世のあしきことをいとうしるし
●この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるし
   この身この世を厭うことが信心ということ

しるし 【験/徴】(1)これから起ころうとする物事の前ぶれ。きざし。前兆。徴候。

 蓮の華はもっとも気高く尊い華なのですが、それでは、その華はどのような所に生育するのかということについて、親鸞聖人は『教行信証』に、『維摩経ゆいまきょう』というお経から、次のような経文を引用なさっています。
「高原のろくには、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥おでいに、いまし蓮華を生ず。」(『真宗聖典』288頁)
 もっとも尊ばれる蓮の華は、実は、誰もが理想とするような、明るくて風通しのよい、すがすがしい場所に育つのではないのです。そうではなくて、誰からも
遠ざけられるような、汚らしくてジメジメとした泥沼にこそ、蓮の華は咲くのです。一切の汚れに汚されていない真っ白な蓮華は、ドロドロと濁りきった泥沼の
なかにしか咲かないのです。何とも不思議な感じがします。
 世間の泥にまみれている哀れな凡夫、煩悩にあふれた日常に埋没していて、そこから脱け出そうにも脱け出せない悲しい凡夫、何が人生の最後の依り処なのか
がわからず、そのわかっていないことすら、わかっていない愚かな凡夫、そのように情けない凡夫であるからこそ、阿弥陀仏は救いたいと願っておられるのだと
教えられています。
 私たちの日常は、まさに「卑湿の淤泥」であります。釈尊と親鸞聖人の教えから、そのような我が身のありようをつくづくと思い知らされて、阿弥陀仏から私
たちに差し向けられている願いのことをよくよく聞かせてもらい、疑うことなく素直になって信じるならば、その人こそ、泥のなかに咲く白い蓮華であると言わ
れているのです。何ともありがたいことです。(http://www.tomo-net.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge29.html)

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