供養ということを考えさせられる

泡瀬埋め立てによって失われるいのちを弔う

(浦島悦子2009/01/28JanJanニュース)
1月15日から開始された国(沖縄総合事務局)による泡瀬干潟の埋め立てによって失われるすべてのいのちを弔いたいと、浄土真宗沖縄東本願寺の僧侶らが呼びかけた供養式が25日、沖縄市泡瀬の海岸から延びる埋め立て工事用の仮設橋梁入口で執り行われた。
(中略)
焼香台を設置したあと、十数人の参列者の前で3人の僧侶による読経が行われ、次のような誓いの言葉が読み上げられた。

 「……願わくは、仏陀が教える『私たちはこれ以上貪る必要がなく、足りていることを知れ』といういのちの教えに耳を傾け、いまを生きる者として、何を願っているのかをあらためて問い、この果てしない欲求を追い求める生活の中で、真実の生き方を回復したいものです。
 今、このときに当たり、失われていくいのちを供養し、私たち人間が生き物たちから願われていることに耳を傾け、すべての生き物を救いたいという阿弥陀仏の本願をよりどころとして、その深い願いに生きることを誓います」(後略)

はじめ多分大谷派の僧侶であろう人たちが頑張っているな、と思いこの記事を読んでいった。
沖縄には大谷派の寺院は1ヶ寺しかなかった記憶がある、だからどういう方がやっているのかよくわからないが、親鸞さんの教えが明らかになるかも知れない大切な儀式だと思った。
でも、供養式と題され、また表白であろう文章に供養という言葉が使ってあり、ちょっとドキッとしたが…
こういう供養ならありかななんていう気もした、私は。
私自身供養という言葉をあえてあまり使わなかったり、真宗としても伝統的には肯定的にしてきてない。「私に供養が出来るのか」という問いが私にはこの問題を考えるときに問題となる。不回向、他力回向ということを思ってしまうからだ。
私たちにはヤッパリ供養したいという気持ちがどこかしらある。教義からしておかしなことかも知れないけど、抜けきらないというか、供養したくなる。
良く考えれば、私は供養という言葉を弔うという言葉に代えて使っていたような気がする。
供養と弔うことが違うことなのか、同義なのかということはよく調べていないこと、言葉狩りを恐れて弔うという言葉に代えて私は使っていたような気がする。

衣食を供給し養っていくことが供養ということの始まりだったと思う。どこかのリーフレットに

供養は、仏さまの大いなる世界を私がいただいたことの表現です。

供養とは、「仏法僧の三宝」として現されている真実の世界に対してなされるものです。本当に尊敬されるべき世界、本当に大切にされるべき世界を見いだすこ
とです。それは自分を中心にして生きているものが、自他平等のいのちを現す仏さまの世界に、われもひとも共に生きることのできる世界を見いだすことです。
その感動が供養の形をとるのです。

という言葉があったことを思い出す。
「我も人も共に生きることの出来る世界を見出すこと」を願うとき、失われていくいのちが目の当たりに明らかになったとき供養したい!とまた願うのではないだろうか。
それが供養ということでないかと思ったのです、私は。
自分の身を守る道具としてでない、供養という思いが私のなかで湧いてくることも有り得ると思いました。
この記事を読み、
供養ということを完全に否定するのではなく、
追善という供養は自我の何者でもないことだけど、
追弔という供養は大事にしていかないとと思った訳なのです。
先のリーフレットをよく嫁化くようということは完全否定されていない。
自分が真宗の教えをどこまでも善悪の問題で聞いていたのかな、そんなことも明らかにしてもろた。

このこともう少し考えていこ!

結論のないというか、とりとめのない記事になってしまいました。
以下のようなWEB署名を見つけました。

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