仏法聞き難し

いつもお参りをさせていただいていて、そして小学校の同級生のおかあさんが亡くなられ、機能葬儀がありお参りをさせていただいた。
今日から初七日まで参りにお参りに伺わせていただいている。
いつものように正信偈の本を持って行っていっしょにお勤めさせていただいている。
なのか参りの時、いや、平生の月参り、そして法要の時儀式として聖教として正信偈や、経典を読誦させていただくわけだ。
その中で
お参りって何なんだろう
という迷いが自分の中で明らかになってくる。
お聖教を読んで何を自分はしてんだろうと思う。
自分がお聖教を読むということを通して、
お聖教に出会ってもらうご縁を作らせていただいている、という結論はいつも出るのだけど、
そういう結論が出るからこそ、
いっしょにお聖教を読むという作業をさせていただくわけだ。
でもそれですっきりする訳じゃない。
これで本当にいいんだろうって思ってしまう。
お聖教に出会ってもらいたいという仕事をしている自分は、
本当にそう思っているのか、
自分は本当に出会っているのか、
「お聖教」と呼ばれているものは私の所に届いている、
だけど、私にとってそれが本当にお聖教なのか
お聖教として本当に頂いているのだろうか。

お聖教を届けるという作業を通して、自分もで宛行く歩みが必要なのだろう、
共に出会っていきましょう、っていう市政が大事なのかな。
そうはいうけど、
姿勢としてなかなか現れない、
ともにという歩もうという心が強まっていない。

自分が伝えれるわけないということが判ってないから、そこで悩むのかな。
また本気で伝えようとしてない自分が見えているから空しいのかな。

結局徒然なるままに書いてしまい、支離滅裂な文章になってしまいました。
何でこんな文章を書こうとしたのかな、判らなくなっちゃった。

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