まつられることの悲しみ

先日八日、教区で解放運動研修会がありました。
ヤスクニ問題を学びました。
講師は、大聖寺教区の西○★一さん
この方は知り合いっていうわけではないですが、昔から顔は拝見させていただいていた方ですし、何度かお話しもさせていただいたことのある方です。
そして大生時代、和田先生のお寺で何度か、報恩講や夏期講習におじゃましたことがあるのですが、そのとき直綴を着てお勤めをされていたという記憶が私にはつよいです。物静かで、何か思いの強い方なんていう印象が強かったです。

今回原告のお一人でもあるということで靖国訴訟のお話しをしていただいたのですが、
「祀られることの悲しみ」というようなこともおっしゃっておられました。
戦争で父を亡くしたことが一番悲しかった。そして田畑は自分で作ってなかったら人のものになるという噂があって父が亡くなったので、仕方なく学校をやめて田畑を耕した、そのこともどこか悲しかった。
そして真宗を聴聞することによって父が靖国神社に祀られていることが悲しく感じてきた、そしてそのことがいつの間にか一番悲しいことになっていった、とおっしゃっておられました。印象的でした。
また、憲法九条は父の遺言だと思っているともおっしゃっておられた。引証できでしたし、考えてます。
そういえるようになる心境、その変わり目に凄く興味があります。

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