165 すくい

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ご縁のあるお寺で
いたしましょう

二〇〇九年 年期(忌)表
一 周 期    二〇〇八年命終
三 回 期    二〇〇七年命終
七 回 期    二〇〇三年命終
十三回期    一九九七年命終
十七回期    一九九三年命終
(廿三回期)    一九八七年命終
廿五回期    一九八五年命終
(廿七回期)    一九八三年命終
卅三回期    一九七七年命終
五十回期    一九六〇年命終
百 回 期    一九一〇年命終
《法 要 に つ い て》 
法要は年期というものに基づいて行われています。しかし仏教に基づくものではなく慣習からくるものです。ですから年期になったから絶対に勤めなければいけないということはありません。基本的に法要とは法の要を聞くという行事なのですから、いつしなければいけないということではなく、法要を催したくなった時に催せばよいものです。

御文をいただく 其の六 五帳目第一通⑥ す く い
 私たちは救われたいという思いが湧くことがありますが、しかしその救いの内容をどれだけ実体化できているのだろうか、と考えることが私にはあります。世界には数え切れないぐらい沢山の宗教があります。そしてその宗教の数だけ救いの内容があることでしょう。逆から言えば救いの数だけ宗教があるといえることでしょう。
 私は救いという言葉は幸せという言葉と近いと思っています。ですから幸せの内容も宗教の数だけあるといえることでしょう。宗教という言葉にこだわらなくても、人間の数だけ幸せがあることでしょう。その人が生まれたところの価値観、そしてその人が生きる中での経験によって救いの内容は変ってきます。私という人生の中でも、幸せの内容が変化し続けていることでしょう。ですから自分が幸せと思っていることも人によっては幸せと感じないことも、正反対に不幸と感じることもあるのではないでしょうか。その中から「小さな親切大きなお世話」という言葉も生まれてきたのではないでしょうか。
 私たちが私の思いの中で勝手に画く幸せをそれぞれで求めていくと、一つになるということはないでしょうし、人を抑圧したりされたり、争いごとばかりが起こることでしょう。浄土真宗の救いは自分の要求を満足していくという方向ではなく、「自分は何故救いを求めているのか」という救われたいという心のもとを明らかにしていく道なのです。言い換えれば救いを求める心のもとにあるものが明らかになることが浄土真宗の救いであり、このことがこの上ない私たちの幸せなのです。

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