仏事としての獅子舞

いろんな迷想の結果、今獅子舞について考えて遊んでいます。
越中の獅子舞のほとんどは江戸後期、明治初期より始まった「芸能」であります。特徴としては、ムカデ獅子です。春祭りや秋祭りの時にかく村々で舞われます。最大の特徴は何といっても、獅子討がいることです。花笠をかぶった子どもがすることもありますが、天狗のお面をかぶって獅子討をします。
基本的には百獣の王の獅子がいるということによって悪魔が近づくことが出来ない、そういうことがイメージされるものなのでしょうが…獅子に悪魔払いをしてもらうということが基本なのですが、越中ではそうではないのです。獅子討といいますけども、多分、獅子を司る、操る、調教する存在ががいるのです。獅子の調教したるものが獅子討だと思うのです。その獅子討は巫女をイメージする花笠をかぶった子どもが演じたり、山伏をイメージして天狗の面をかぶったものが演じたりします。
所によっては、花笠をかぶった子どもが獅子討をしてもどうにも出来なくなり、天狗が変って征伐するという物語に準じて舞われるところもあるようです。
基本的に伸司として越中でも獅子舞は見なされるのですが、
私は獅子討として天狗がいることに注目をします。
悪罵払いをしたり、紙成る存在との接点を結ぶのは巫女や神主だけではなく、天狗なるる修験者がするのだということが、越中の国には常識としてあるのだと私は思います。
考えてみれば神社は各村落にに少なくとも一つはあります。でもその村落すべてに巫女や神主がいるかといえばそうではありません。住職のいないお寺は少ないですが、神主のいない神社は結構あります。そしてその社を守ったり、村の悪魔払い的な仕事をしていたは、少なくとも明治初期までは、山伏や、聖(ひじり)といわれる非僧非俗の仏教者だったのであったのではないかと私は越中の獅子舞より推測するわけです。
神を操るという表現は変ですが、神との接点として、神の通訳者として山伏たちがいろんなところに君臨していたのではないかと思います。
真宗の勢力が強い北陸ということを考えても、親鸞の弟子のほとんどが善光寺聖であったという説があるぐらいですから、善光寺聖も越中の各地を回ったことでしょうし、立山白山の修験者、医王山の修験者やその他の山伏は越中の国を結構うろうろしていたのではないかと想像します。
越中の獅子を天狗が操って悪魔払いをしていくという獅子舞は私は
神事ではなく、仏事だと思うのです。
それがそうしたといわれればそれまでなのですが、仏教者としてそんなことを自己主張したいのです。明治以後廃仏毀釈により山伏さんたちが各村落の社から切り離され、食べていくのに困って、山伏がどんどん減っていったことなのでしょう。


全くの余談になるのですが、
本願寺の別院である井波の瑞泉寺は本願寺留守職の綽如が建立した寺院であるといわれています。
そうなのでしょうけど、少なくとも綽如がいたことも間違いないことですし、綽如さんのお墓も井波にあることですから…、
でも、
最近五来さんの本を読んだり、瑞泉寺の伽藍の特徴として聖徳太子像を安置してある大師堂と、阿弥陀堂があるということ、そして井波の周辺は太子信仰が強いということから考えていくと、瑞泉寺は新善光寺としての意味合いもあったのではないかと思います。言い換えれば善光寺の支院としての役割もあったのではないかと私は勝手に思っています。新善光寺として瑞泉寺は建立され、そこで親鸞の教えが説かれていた。親鸞の血脈を持つ有力者が井波で新善光寺として瑞泉寺を開いていたから、そこをたよりに綽如はやってきたのではないかな、ッて思ってます。もしかしたら逃げてきたのかも知れない。

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