愚禿が名告り

愚禿という名告りについて、非僧非俗という得の名告り、そして愚者になりて往生すという言葉を頂いての名告りだと私は思ってた。
でも最近ちょっと修正しています。
得というのは聖を表す言葉、
民衆仏教として民衆への梯として仏教を運ばれていた肝心聖を意味する言葉だといた抱き直しています。非僧非俗というのも間違えではないけど、そういう意味で言えば非僧非俗は親鸞の専売特許ではなく、聖の方々の専売特許うだったものいつの間にか元祖が奪われた形だと思う。ついでに言えば肉食妻帯も。
ということで愚禿という名告りは
(専修)念仏聖を表す言葉だと私は今頂いています。
専修念仏と、民衆仏教の融合と言うことが親鸞さんの大きな課題であるということがあらわされているお名前だと思う。
念仏は民衆仏教としてふさわしいものなのだけど、専修念仏はどうだろ。

少なくとも私たち清沢満之に毒された、ちょっと言い過ぎかも知れないが、信心と言うことを哲学的視点で表現され、それを聞いてきた私たちの抱え込んで市まっいる、立派に見えるように飾ってたお念仏が民衆仏教なりうるのだろうか。融合し得るのだろうか。
雑修雑多な念仏は民衆化しやすいだろうけど、専修念仏はどうだろうって私は思ってしまう。
それを融合させるって言うのは凄い大きなロマンだと私は思う。
大事業だと私は思う。、

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