神になるのではなく仏菩薩になられた

先週末組門徒会の上山奉仕にお伴させていただき同朋会館に行ってきました。
私は初日の夜都合により家に帰っていったのですが、
私がいるときはまぁ見事に教導さんが話しをする暇なくずっと座談してました。
教導さんも話しをすればいいのに聞きたいことありますかと言ったものだから質問から始まり教導さん、補導さんを交えて座談に入っていきました。
それはそれで良いんです。
場の力により結構座談が出来たと思う。
今回参加した人たちの中にはヤスクニ問題を何故教団は問題にするのか、とか、死刑制度についても…、何の遠慮もなく発言される人がいる。
当然座談の中でも園は梨になったんだけど、
会館でお話しされたことではないのだけど、以前そのヤスクニ問題研修会で話しされたことを思い出した。
大谷派は遺骨収集に何も協力してない、
といわれたこと。気にかかってました。それを思い出したのです。
多分個人的には大谷派関係者は協力されているのでしょうが、教団の事業としては全く。
もしかすると、遺骨収集に積極的に協力して、ヤスクニ問題とりくむのであればまだ理解されているのではないだろうかと思うのです。

会館でも座談の時には結構私は黙って話しを聞いていたのですが、
その中で、
先輩方が、戦死者は九段ではなく、浄土に行かれるんです。なんて言う話しをされていたことを思い出した。亡くなられた人は英霊でもなく、神でもなく、浄土に帰られて仏菩薩になられるのだ。
私(たち)はそういう言葉は知っているけど、それを生活の中で、生きている中で表現できてないのではないだろうか。
戦死者、赤紙一枚で戦争に連れて行かれせんそうに参加し、亡くなっていった人を仏菩薩としていただくという姿勢が私にはあるのだろうか。
単に兵隊になって人を殺してきた罪悪人としか私は見ていなかったのではないだろうか。
いのちの大切さ、戦争の愚かさを教えてくださった仏菩薩として敬うという姿勢が私には必要なのではないだろうか。
なんて思ったのです。
ヤスクニ人者に神としてまつられてしまって神にさせられている方々を、改めて仏菩薩として敬うって言う姿勢が私には大切なのではないかと思うんです。教団にも。
そういう姿勢によってもっともっと私たちの思いを聞いてくだされるのではないだろうか。

そう思う次第です。

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