10 如來所以興出世

如來所以興出世 唯説彌陀本願海
五濁惡時群生海 應信如來如實言

<試訳>
諸仏がこの世にお現れになったのは阿弥陀仏の本願をお教えになるためだけです。
末法五濁を生きる私たちは諸仏の教えを頂き、聞き続けて行かなくてはなりません。

「如来所以興出世」というは、諸仏の世にいでたまうゆえはともうすみのりなり。「唯説弥陀本願海」ともうすは、諸仏の世にいでたまう本懐は、ひとえに弥陀
の願海一乗のみのりをとかんとなり。しかれば、『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萠 恵以真実之利」とときたまえり。如来所以興出於世は、如来
ともうすは、諸仏ともうすなり。所以というは、ゆえというみことなり。興出於世というは、世に仏いでたまうともうすみことなり。欲拯群萠は、欲というは、
おぼしめすとなり。拯は、すくわんとなり。群萠は、よろずの衆生をすくわんとおぼしめすとなり。仏の世にいでたまうゆえは、弥陀の御ちかいをときてよろず
の衆生をたすけすくわんとおぼしめすとしるべし。「五濁悪時群生海 応信如来如実言」というは、五濁悪世のよろずの衆生、釈迦如来のみことをふかく信受す
べしとなり。(尊号真像名文)

釈迦の出世本懐から諸仏の出世本懐へ

釈尊の出世本懐(弥陀と法華)

如来、無蓋の大悲をもって三界を矜哀したまう。世に出興したまう所以は、道教を光闡して、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。無量億劫に値いたてまつること難く、見たてまつること難し。霊瑞華の、時あって時に乃し出ずるがごとし(大無量寿経)
それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり(大無量寿経)

諸仏世尊は唯(ただ)一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる(法華経方便品)

諸仏の出世本懐
五濁悪世委を生きる悪人を知らしむる諸仏
末法

『大集月蔵経』に云わく、「仏滅度の後の第一の
五百年には、我がもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固を得ん。第二の五百年には、定を学ぶこと堅固を得ん。第三の五百年には、多聞読誦を学ぶこと堅固を得
ん。第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固を得ん。第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。微しき善法ありて堅固を得ん。」今
の時の衆生を計るに、すなわち仏、世を去りたまいて後の第四の五百年に当れり。正しくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時の者なり。一念阿弥陀仏を
称するに、すなわちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでに爾なり、いわんや常念を修するは、すなわちこれ恒に懺悔する人なり。
 また云わく、経の住滅を弁ぜば、いわく釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて、止住せんこと百年ならん、と。
 また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と(化身土巻)

立派なものから私にふさわしいもの(相応)

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