156 おとむらい

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 有縁の方々がこの世の生を終えられたときお参りに行くことを「おとむらい」といいます。漢字で表すと、「弔」となります。漢字辞典を見てしったことですが、「吊(つるす)」という字は元々弔うという字だったそうです。そのことを考えるといろいろな思いが湧いてくるのですが…、そのことは今はさておいて、「弔」と言う字は、人が弓矢棒を持っているすがたが形になり感じとしてできあがっていたそうです。死体が食べられないように弓矢棒きれを持って追い払うことを昔していたことが弔うという漢字になっていったとのことです。
 今でも近所の人や親類の者が家に集うのは、元々は、ネズミや野良猫野良犬からご遺体を守るためだったそうです。遺族を訪れて故人が亡くなったことを悔やむためだけではなかったようです。また、「とむらい」と言う言葉も「とぶらい」という言葉が変化したものであるといわれています。とぶらうというのは今でいう訪れるということです。
 有縁の人が亡くなり訪れるのは単に遺族に会いねぎらったり故人がなくなることを単に悔いるためだけではないと私は思います。ある意味応えてくれるはずのない故人に会うために訪ねるのです。ご遺体を動物から守るのは故人と二人っきりの場を作り訪ねるためになのです。焼香をするというのは他を追い払うという意味があるそうです。
 有縁の人の死を他人の死にとどめるだけではなく、弔いに来ている私も同じくいつかこの世の生を終えるときが必ずくる、そのことをご遺体とお会いする事を通して確認していくことが大切だと私は思います。
 この世の生が終わること、死を迎えなければならないのは今を生きている私たちも同じです。だからこそ死に向かってどう生きていくのか、そのことをご遺体と対面することによって私が訪ねる。生きとし生けるものは必ず死を迎えなければならないという悲しみを故人と、ご遺族と共に感じることが弔いをすることの仏教的な意義であると私は思っています。
 ご遺体と対面することによって必ず自分が死を迎えなければならない悲しみに気づかせていただくことが、故人を仏様として出会う第一歩でしょう。
 故人は人間としてはもう出会うことはできませんが、仏様として出会うことはこれからもずっとできるのです。仏様とは人間の生き様を悲しみ私たちを救わんと願われ動いておられるお方であります。

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