147お内仏のお世話⑪ お経様にであう

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人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。

 これはお東のお坊さんがお説教の前に唱える三帰依文の最初の部分である。
 人としてこの世の生を受けることは能く能く考える取ると愛づらしいことである。でもわたしは今人として生きている。そして人として生きることのめでたさを教えてくれる仏教に出会うということもなかなか出会いやすいものであるとは言い難い。でもわたしの目の前に仏教の歴史がやってきている。このように私たちに教えくださっている言葉である。この言葉を聞くと「なるほど」と理解できるのである。しかし、そのことに頷いて生活している人がどれだけいるだろか。わたしも悲しいことだけれども頷けずに生きている一人である。
 お経というのはお釈迦様がお説きになられた教えが収められている本をいいます。今から約二五〇〇年前インドで私たちのために教えをお説きになられました。それを未来の人々に伝え残すために教えを聞いた人たちが集い文字に書きとどめました。それがお経の始まりです。いうまでもなくはじめは昔のインドの言葉で書きとどめられましたが、中国の人々が昔のインドの言葉で書き表してある教典を中国に持ち運び、自分たちの言葉に、書き改めるという事業を何度もしました。それが日本に伝わり、そして今私たちの目の前に届いているのです。
 今私たちが目にする多くのお経は漢文で書かれています。またそれをそのまま読誦することが多いですので、お経を見ても、聞いてもなかなか言葉の意味を簡単に理解することは難しいのが現状です。しかし私達の所に経典として伝わっていることは事実です。教典として伝わってきているということは教典という本が伝わっているという意味ではありません。お釈迦さまが、仏であるお釈迦さまが私たちの止めにお説きになられた尊い教えがわたしに伝わっているということです。少なくても、お釈迦さまを仏様として敬い、そしてお釈迦様がお説きになられた言葉を尊い教えとしていただかれた方々が次の世代の人に、わたしに教えとしていただいてほしいという願いの中で、その願いの連続の中でわたしのところに教典が現れているのです。
 私たちにとっては教典というのは単なる古典文学的な本でしかあり得ないのかもしれませんが、私たちの抱えている経験や使僧、その他のわたしが大事に抱え込んでいるものを打ち破って下されるものとしてであい直していかなくてはならないのではないでしょうか。
 善導大師様のお言葉に「経教はこれ鏡にたとうるなり」という言葉があります。このお言葉のように、教典に収められている教えにであうということは鏡のようにわたしの姿を映し出してくださる唯一のものとしてであうということなのです。
 私たちにはお経というありのままの我が身を映し出して下される鏡は先祖より手渡されています。あとは私たちがその鏡を鏡として使うか使わないかという選びだけなのです。
 

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