たくさんの友人からの誘い そして 私も参加する予定   『死罪・流罪 法難800年ナムナム大集会』 首がとぶような念仏とは

namunamu.jpg来年(2007年)は「承元の法難」から800年の年になります。
800年前の2月9日、法然門下の4名の僧侶、善綽、性願、住蓮、安楽が、斬首され、その後、法然や親鸞が流罪にされました。親鸞はこの出来事を、「主上臣下(しゅしょうしんか)、法にそむき背きぎ義にい違し、いかり忿を成しうらみ怨を結ぶ?みだ猥りがわしく死罪につみ坐す」『教行信証』と、激しい言葉で批判しています。
800年、節目の年に、念仏の教えに生きんとする私たちは、「承元の法難」を憶念する集会を、下記の通り企画しました。
「ただ念仏して」という親鸞が何故流罪となったのでしょうか。
首がとび、流罪になるような「念仏の教え」とは一体どういう教えなのでしょうか。
私たちは今、法然や親鸞と同じ念仏をしているのでしょうか。
アメリカの、いわゆる「テロ」との戦いという名目の戦争に荷担する日本、アジアを軽視し、国家主義の傾向を強める日本は、教育基本法の改定等でいよいよその動きを加速するかの如きであります。このような現状のなか、「ただ念仏して」という親鸞の教えはどのように響くのでしょうか。私たちは親鸞が流罪になることで開かれた念仏の教え、浄土の真宗を生きているといえるのでしょうか。
流罪によって国家から排除され、その排除した国家を逆に拒否した親鸞はそれ以降「非僧非俗」を名のりました。そして、僧侶でありながらも結婚した親鸞は、おんなとおとこの水平な関係をめざし苦悩し続けたように思われます。
私たちは、それらの親鸞の課題と真向かいになってきたのでしょうか。
今、アジアをはじめ多くの日本という国家を問う人々や、男女平等を願うおんなたちから、あなたたちの親鸞理解はそれでいいのかと厳しく問われています。
それらの問いかけに応えることを通して、流罪になった親鸞の念仏の思想を明らかにしたいと願っています。そのことが、行き詰まっている現在の真宗教学をも解放することになると考えるからです。
 寒い時期の開催となりますが、是非とも集会へご参加ください。有縁の方々への御案内を宜しくお願い申し上げます。                      
合 掌

                    記

「法難800年大集会」企画
『死罪・流罪 法難800年ナムナム大集会』 首がとぶような念仏とは
     
 日 時:2007年2月9日(金)  
   テーマ:浄土と国家とおんなとおとこ
会 場:正午?    阿弥陀堂  
    午後1時半? 大谷ホール
出 者:三国連太郎 田中美津 タテタカコほか     
協力金:一般2,000円、学生1,000円
   振込先:記号14450番号38069731

出演者プロフィール(敬称略)
【三国連太郎】  
静岡出身。1923年生まれ。俳優。1952年『善魔』(映画)でデビュー。『飢餓海峡』『はだしのゲン』『犬神家の一族』『大河の一滴』などに出演。最近では『釣りバカ日誌』シリーズで活躍。”スーさん”の愛称で親しまれている。1986年『親鸞・白い道』を製作。自ら監督にあたり、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。
近著として「生きざま死にざま 三国連太郎」(KKロングセラーズ)がある。その中で、親鸞探求が、閉じ込めてきた自分史を解放させると語っている。その通り、同書には男性である三国氏の歯に衣を着せぬ言葉で自分がたどってきた道を女性観、戦争体験、被差別者としての芸能論など、忌憚なく披瀝されている。「白い道」製作について「私は何のために生きているのか。それを根本から問いかける映画を製作しよう。ついては、理解しにくい教義を解説するのはやめるべきだと思ったのです。同じ地平に立って、庶民レベルの映像で、親鸞にぶつかっていくほうがより親鸞的とでも言うのか・・・」と記している。

【田中 美津】  
東京生まれ。生来虚弱なのに、1970年代初めのリブ運動でがんばって、心身ヨレヨレに。
その後、ぼーっとするためにメキシコで4年余り暮らす。その間に「ヒトはからだだ!」と悟り帰国。鍼灸師となって’82年にハリ治療所「れらはるせ」を開設。
やがてまた、「からだはこころで、こころはからだだ」と気づくべくして気づいて15年前からイメージトレーニングのインストラクターに。(朝日カルチャーセンターで講座を開く)。現在はアレルギー、更年期、冷え性、虚弱に悩む人を専門に治療している。
主な著書に『いのちの女たちへーとり乱しウーマンリブ論』(現代書館)、『美津と千鶴子のこんとんとんからり』(上野千鶴子氏との対談集・木犀社)『自分で治す冷え症』(マガジンハウス)『いのちのイメージトレーニング』(筑摩書房)『ぼーっとしようよ養生法』(毎日新聞社刊・文庫は三笠書房)などがある。
「いのちのイメージトレーニング」(新潮文庫)カバーより

【タテタカコ】  
長野県飯田市出身・在住のシンガーソングライター。国立音楽大学教育学科卒業。
2003年秋、映画『誰も知らない』にコンビ二店員・宮島さなえ役で出演すると共に主題歌「宝石」を歌う。
捻(ねじ)れきった現代の傷みを暖めながら、独立独歩で歌って歩く。本当に、自分の速度でしか進めない。「しょぼい歌い手ナンバーワン」を目指し、どうにも掴みきれない捩(よじ)れた感性から特徴的な言葉を紡ぎだし、心象原風景にある懐かしいシンプルなメロディーを、確実に安定した演奏力で奏でられるピアノに織り交ぜながら歌う。単に澄んでいるだけではない毒のある個性的な声と、その場の空気を吸い込んでしまうような強い求心力を発揮するライブ・パフォーマンスが印象的な、新種のバラードシンガー。

☆主 旨☆

 来年は「承元の法難」から数えて800年の年である。教団でもその記念法要が企画されているが、それは法難の「御苦労を偲ぶ」という域を出ないものとなっている。
「念仏を申す」ことで、何故親鸞は流罪となったのか。念仏申すことで、何を否定したのか。我々はその思想的意味を問いたいと思う。首がとび、流罪になる。それほど国家と緊張関係を持ちながら、明かされた「念仏の教えとは何か」。
 9・11、9・17小泉訪朝以後のアジア蔑視、国家主義の傾向を強める日本の現状を、流罪となった親鸞の思想を明らかにすることで、破っていくことは、我々真宗門徒の責任である。そしてそれは、漢訳経典を拠り所とする日本仏教徒の報恩の勤めでもある。
 また、親鸞は流罪に際して、非僧非俗と名告り、僧侶でありながら婚姻関係を結び、おんなとおとこの水平な関係をめざした。しかし我々が、親鸞の課題を見過ごしてきたために、今、あらためてその問題をフェミニズムの思想から問われている。しかし我々は、その批判にまともに向き合ってもいない。
今、アジアやフェミニズムからの批判に応えることを通しながら、流罪になった親鸞の思想を明らかにしたい。そのことが行き詰まっている現在の教学を解放することになると考えるからである。

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