報恩講

今お寺の報恩講に飛び回っている。そしてご縁深き方々と酒を酌み交わす。また、酒を飲まない人、飲めない人も同じ場に座して歓談する。そして程良い頃に散らばっていく。
言うまでもなく、車を運転してきた人は運転代行を利用して散らばっていく。
近年は酒を飲まない人が増えている。私としては寂しい限りだ。
報恩講は楽しい。
報恩講は祭りだ。
でもよく考えると報恩講は親鸞聖人のご命日を縁として勤める行事。宗祖に直接お会いできないことを悲しむべき行事。宗祖がお亡くなりあそばして七百年以上経つことを悲しむべき行事。
でも私は報恩講を楽しんでいる。まぁ言い訳するなら
宗祖がお亡くなりになられて数百年経ついまでも私の所に宗祖の言葉がとどいてきていることを喜ぶ日
宗祖の言葉が教えとしてお出でになられたことを喜ぶべき行事なのだ。

釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたもう
正像の二時はおわりにき
如来の遺弟悲泣せよ(正像末和讃)

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし(正像末和讃)

「報恩講」への3件のフィードバック

  1. らくりんさんは「末法というのは時代に対する機の深信」ということを言われます。
    だから「釈迦如来かくれましまして」の和讃を引いて時代を嘆くのは一面的で、末法だからこそ、この時代だからこそ、真宗が明らかになった時代なのだという喜びがあるのだと思うんです。

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  2. 宗祖親鸞かくれましまして
    七百余年になりたもう
    正法のはおわりにき
    宗祖のの遺弟悲泣せよ
    こんなうたを作ってみました。
    親鸞教としての私たちはこんな悲しみ必用なのかな。
    親鸞教の私たちにとって正法でない今もうできない成仏って何だろう。
    あらためて、宗祖を同行としていただき、
    釈迦如来…
    というご和讃を頂きなおさなければ

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