学ぶということ

今日は小矢部市のお寺で、そして明日は水橋のお寺でお説教です。


必修漏れ、41都道府県の404校に 政府は救済策検討(asahi.com)

 高校の必修科目の履修漏れ問題は28日未明、朝日新聞の集計で41都道府県の404校に広がった。政府は履修していなかった生徒に対する救済策の検討に入った。安倍首相は27日、「子どもたちの将来に問題が発生しないよう対応すべきだし、そのように指示をしている」と官邸で記者団に語り、文部科学省に検討を指示したことを明らかにした。これを受け、文科省は30日までに対策をまとめる。

このことをとっかかりとして、

それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとい一文不知の尼入道なりというとも、後世をしるを智者とすといえり。しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。されば聖人の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるという事あるべからず」とおおせられたり。このゆえに、いかなる女人なりというとも、もろもろの雑行をすてて、一念に、弥陀如来今度の後生たすけたまえと、ふかくたのみ申さん人は、十人も百人も、みなともに弥陀の報土に往生すべき事、さらさらうたがいあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ(お文5-2)

11一 聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくは、いたずらごとなり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとおりそうらわば、往生すべきなり。
13一 教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。
69一 蓮如上人、仰せられ候う。「本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれ」と、対句に仰せられ候う。
90一 聖教を拝み申すも、うかうかとおがみ申すは、その詮なし。蓮如上人は、「ただ聖教をば、くれ、くれ」と、仰せられ候う。また、「百反これをみれば、義理お のずからうる」と申す事もあれば、こころをとどむべきことなり。聖教は、句面のごとくこころうべし。その上にて、師伝・口業はあるべきなり。私にして会釈 する、しかるべからざる事なり。(御一代聞書)

以上のお言葉を手がかりとして「学ぶ」っていうことを考えてみようと思ってます。
細かいところはまだ築けてません。


結局、思ったように話しはつながっていきませんでした。
水橋のお寺では、挨拶のところで、最近暑いですね、って言う話しをしてしまい、それは人間にためにとした結果、人間のためにならなかった。と結論づけ
高校の履修問題も、ある意味学校のため、教師のため、受験生のためにやって、結果として受験生のためにならなかったんだと結論づけて、環境問題と、履修問題がくっついてていまい。本質のわからない人間だからではと提起してしまいました。
そこから無理矢理、生きる意義、生きる喜びを知らない人間、それを知ることも大事だけど、それを知ろうとする気持ちももっと大事なのではっていうような話しに変化していきました。

「学ぶということ」への2件のフィードバック

  1. 本日、御法話の前座をつとめてまいりました。
    明日は父が参りますので、お会いできずに残念です。
    ボボちゃんさんのお腹も拝見したかったな。

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  2. 流星さん
    何をおっしゃいますか、前座なんて、
    そういわれるとこっちが居心地悪いです。お会いできると思っていたんですが、残念です。29日は日曜日ですもんね。忙しいですわね。
    またご縁がありましたら。

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