声を出すこと

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三男坊の発表が終わってから急いで次は次男坊のやきゅうの試合だった。やきゅうと書いたのは訳があってローカルなやきゅうだからだ。富山市の一部で行われているティーを使い三角ベースで一チーム六人で行うティーアップベースボールである。
うちの次男坊が所属するチームはそんなに強くない。まともにキャッチボールが出来ないんだから。ということもあって最近、がんばる気持ちを出してほしいと思い、声を出すようにさせている。守るときは「持ってこ?い」攻撃の時は「がんばれがんばれ○○」って感じで声を絶えることがないようになるようにしている。最近これが大事なのかなっていう気がする。
声を出しているとうまくなるということはないが、守っているときもがんばるぞっという気持ちが持続しやすいように思う。またみんなで応援しているとみんなが応援しているのだからがんばらなくちゃって思っている感じが個人的にはする。声を出すことによって何か力が漲ってくるのではないかっていうことを最近子ども達の試合を見ながら強く感じている。少なくても声を出すことによって気持ちが持続するし、負けそうになっても気持ちが持続できる、と私は感じている。ある意味声を大きく出すことによって力が宿るっていうことも言えるよう思いが私にはある。帝国主義時代の日本、新興宗教の言葉の連呼。通じるものを感じる。そういう意味では危険なこと!
アビさんは「マントラとしての念仏」そういうことを指摘されているように思う。違っていたらごめんなさい。訂正ください。私は伝統教学の中に使って親鸞や念仏を見ているのでこのことは正直否定してしまう。してしまっていた。最近そういう視点もありかなって思うこともある。
念仏を称えることによって、浄土往生の志を持続させる。浄土往生という道にくじけそうになっても念仏を称えることによって、志が復活する、そういう視点として念仏があるのではないだろうか。志を無くさないための呪文としてねんぶつがあるってかんがえてもいいのかな?って最近は思っています。
念仏は深い、なんてそういうことを感じています。自分の思っているだけの念仏以外にも念仏があるそう感じる。その事を簡単に批判できない。伝統教学を知っているからといって違うとは簡単に言えないような気がする。
でもそういう念仏が認められるかというとまた複雑です。

話はちょっと変わりますが、
神祇不拝ということをもう少し明らかにしないといけないと持っている。
我が大谷派教団は、アイヌモシリ日本が侵略するときに積極的に荷担してきた。そしてアイヌの人達が信仰している宗教を劣った宗教問い地図け、念仏をアイヌの人達に押しつけようとした。
神祇不拝ということと真宗至上主義、原理主義そういうことをもう少し整理しないといけないと思う。その事が整理できない限り、世界宗教とはなりえないだろう。他を認める宗教とはなりえないだろう。

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