128 お内仏のお世話⑥あかり

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 ご本尊にお参りをするときには輪灯などの明かりをつけます。また、ご命日の日などのお勤めをするときには蝋燭も灯します。これはご本尊が見やすくするためです。以前までは油皿に油をはり、灯芯に火をつけていましたが、今ほとんどのお宅では電球に取って代わっています。また蝋燭も火事を恐れられ電球にされるお宅もありますし、ほとんどが和蝋燭ではなく洋蝋燭になっています。私は灯芯に点火して灯すのも、和蝋燭をとぼすのも個人的には好きです。その光を見つめていると味わい深いものです。
 蝋燭や輪灯の灯は本尊を照らすためのものなのですが、でももうひとつ照らしているものがあります。それは本尊の反対が側のものです。といっても自分が振り向いてこれかなって思うものではたぶん違うでしょう。灯は反射板がない限り全方向を照らしています。本尊を照らすと同時に私をも照らしているはずなのです。しかしこのままでは照らされている自分は見ることはできません。鏡のようなものがあって初めて私を照らしていることがわかります。
 ご本尊なる阿弥陀如来も私たちを照らし続けてくださっています。蝋燭などの灯と同じように照らしていただいている自覚は全くありません。ご本尊に向かうと眩しいと感じることはできるかも知れませんが。ご本尊の光も鏡のようなものがあって初めて照らしてくださっている自覚ができるのです。ご本尊が照らしてくださっていることを知らしむる鏡について善導大師は、「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」とおっしゃっておられます。お釈迦さまのお説教がおさめてある「御経」というものが私たちにとって鏡のようなはたらきをしてくださる、この鏡によって初めてご本尊の光によって照らされている自分が見えるということなのでしょう。またお釈迦様のお説教だけが鏡のはたらきをするのではなく、お釈迦様のお説教を、お説教として、尊い教えをしていただかれてきた方々、歴史も私にとって避けようのない事実を映し出してくださっているのではないでしょうか。
 蝋燭や輪灯はご本尊を映し出すための道具なのですが、それだけではなく、ご本尊が我が身を照らしてくださっている事を指し示しているのではないでしょうか。ご本尊を飾るということはご本尊のお徳を讃えるということでもあるのです。

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