120 お内仏のお世話③脇掛け

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 仏壇の正面には御本尊をおかけするところ以外にもスペースがあいている場合があります。そのところにに脇掛けを安置する場合がございます。脇掛けとして向かって右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左に「南無不可思議光如来」の九字名号を飾ります。あるいは右に親鸞聖人、左に蓮如上人のご影像を掛けることもあります。ちなみに脇掛けが十字名号・九字名号の場合、その前に仏飯器はそなえません。
 「南無」も「帰命」も同じ意味です。昔のインドの言葉である「ナマス」の発音を漢字にあらわしたのが南無であり、意味に基づいて漢字にしたのが帰命です。「尽十方無碍」も「不可思議」も阿弥陀仏の特を表現した言葉です。そして「光如来」は仏を意味します。ですから何れも南無阿弥陀仏を言い換えた言葉なのです。
 帰命尽十方無碍光如来は天親菩薩のお言葉であり、南無不可思議光如来は曇鸞大師のお言葉です。それぞれのお方が南无阿弥陀仏と出会い、そのかなで自分なりの言葉で表現し直された言葉、自分のこれからの生き方を表明する言葉として「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」というそれぞれの名号が存在するといえるのではないでしょうか。
 その九字名号十字名号をご本尊の脇にお飾りするということは、私たちも私たちなりに南无阿弥陀仏─阿弥陀仏に頭のさがるる生活─を表現しようということなのではないでしょうか。表現するということは言葉で表現するということもありますが、生き様として、生きる中で言葉にならなくても、こだわりとして表現していくということであるのです。
 脇掛けの名号にはいずれも「光如来」と書かれています。これは仏さまを光のようだと頂かれているからです。太陽の光のように私たちを照らして下されているのが仏さまなのです。太陽は光と熱を私たちに歩込んでくれていますが、佛は我が身のありのままの姿を映し出していてくれるのです。仏をかんじ我身に向けられている光のような大いなる願いを感じるとき、胸の張ることのできない我身が知らされてきます。その我身は我身を明らかにして下された光の如来様によってでしかたすからないことがまた明らかになってきます。だからこそ如来様に頭が下がるのです。
 そういう生き方をされてこられていたのが私たちの先祖なのです。

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