119 お内仏のお世話② 御本尊

表示119.jpg 私たちは、私たちの先祖は阿弥陀如来を、南无阿弥陀仏を御本尊としていただいてこられました。御本尊とは本当に尊いことという意味です。私にとって一番大事にしていくべきこととして南无阿弥陀仏という言葉を選んでこられたのが私たちの先祖でありましょう。ではそういう私たちは何を本当に尊いこととして選んでいるのでしょうか。
 私たちにとって大事なものは人それぞれかもしれません。「家族」「お金」「名誉」「信頼」「先祖の偉業」いろいろ大事なものはあるかもしれません。しかし、考えるといろいろ浮かんでくるかもしれませんが、実際の生活の中で自分が本当に尊く思えるもの、本当に頭の下がることはあるでしょうか。私はあるとはいえません。
 そしてもう一つ、私たちの先輩方は本当に尊いものではなく、尊いことが南无阿弥陀仏だといわれています。尊く感じるのは物や者ではなく、事柄だったんでしょう。南无阿弥陀仏は存在ではなく事柄として私たちの先輩方は受け取っておられているのです。はたらきとして南无阿弥陀仏を頂いてこられたということなのでしょう。
 阿弥陀佛、阿弥陀如来というように佛のことを如来という言い方もします。仏とは如なるものから来たることをいうのです。如、すなわち真実のはたらきを仏というのです。神様と同じように佛なる存在がいるというわけではなく、真実のはたらきを佛と表現し、そのはたらきを尊んできたのが仏教の歴史なのです。
 本山から頂いた阿弥陀仏の絵像の裏を一度ごらんになってください。そこには「方便法身尊形」と書かれています。また、嘘も方便ということわざのもとになっものに「有相も方便」という言葉もあります。方便というのは手だてという意味です。本当はそうではないけれどもあえてそうした、ということです。本当は仏とは真実のはたらきという、形にあらわすことのできないものなのだけれども、あえて人の姿をして表現したものが、本山から頂いた本尊なのです。
 真実のはたらきが私の上にやってきてどうなるのでしょうか。それは我が身の事実が明らかになるのです。その事実はたいがい自分が気づいていなかったものであったり、認めたくないものなのです。自分にとっては都合の悪いことが真実によって我が身の事実として明らかにさせていただけるのです。
 ことわざに「人の振り見て我が振り直せ」というものがありますが、我が身の事実というものはなかなか自分ではわからないものなのかもしれません。やはり人との関わりによって人との出会いによって感じるものなのかもしれません。だから南无阿弥陀仏が人の姿として表現されてきているのかもしれません。
 「人の振り見て我が事実に気づけ」これが先輩達からの今を生きる私達へのメッセージなのかもしれません。(つづく)

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