117 私の仏事


 最近私の仏事という意識が大切だと感じている。報恩講、年忌法要、月参り、そしてお寺の行事…、仏事といわれるものはたくさんあるが、その行事全てが私のためにあるはずなのだ。しかし私のためにあると感じて関わっているのだろうか、私たちは!そういうふうに反省もしてしまう。
 いうまでもなく仏教というのは私が救われるためにあるのである。他を慰めたり、他だけが救われるためにあるのでは決してありません。私が真理と出会うために、真理への道を歩み続けるために仏教があります。
 別の言い方をすれば、私たちはひととして生まれています。その生業の中で立派な人間になろうとしているはずであります。しか師私たちの考える立派な人間というものは不完全なものとしか言いようのないものであります。自分勝手なものであったり、よくよく考えれば他なるものを傷つけることが多いのです。そしてそのことにも気づかず名立派な人間になろうと励んでいるのが私たちなのではないでしょうか。ですからなかなか人と人の間がうまくいきません。人との関係がギクシャクしてしまっています。そのことに悩み続けているのが私たちなのでしょう。特に家族など親しい関係になればなるほどそうなのかもしれません。お互いの甘えなどがあり関係をなおさらややこしくしてしまうものです。
 そういう私たちの有り様の中で今から二五〇〇年ぐらい前に私たちの教主釈迦牟尼仏、お釈迦さまが私たちに本当の人間になるために、人と人とが共に生きていくことができることを願われ教えを説かれました。それが私たちが言う仏教なのです。
 またお釈迦さまの教えに頷き生きてこられた方々もおられます。高僧といわれる方々です。そしてお念仏のヒグラシをされて個たれた私たちの先祖もそうなのです。その方方がお釈迦さまの教えに頷き続けてこれれたからこそ私の元に仏教が届いているのです。だからこそお釈迦さまの教えが物語として伝わらず大切な教えとして今わたしのところにやってきているのです。
 そのことを親鸞聖人は御和讃の中で
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨をくだきても謝すべし
と、仏教が教えとして私の手元にやってきたことを喜ばれ、そして教えを説かれたお釈迦さまや教えに生きてこられた方々を讃嘆感謝されているのです。
仏事という行事を催す中催す皮である私は門信徒のためにためにと励んでしまい、また門信徒の方々は「仕方がないのう~」とお寺のためだとご参加いただく方もおられるようにお見受けいたします。それは仕方のないことなのかもしれませんし、なかなか封じ込めることのできない心なのでしょう。しかしそういうありかたのなかで、阿弥陀如来の「こちらにこい」というお招きと、お釈迦様の「あちらに行け」という勧めを信じ、そして弥陀釈迦の言葉を信じ歩んで行かれた方々の姿を思い出し、仏道を歩む決意、歩み続けつけついというものを心がけなければいけないのでは2だろうか。

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