111 不殺生戒 戦争を繰り返さない誓い

111.jpg 私には数え切れないぐらい苦手なものがある。その一つが「万歳」である。万歳をしなくてはならないと思うと気が重くなってしまう。できればせずに終わることができないものかとつい思ってしまう。そういう中で私のことを常識のないやつと思われている人が多くいるようである。仕方のないことかもしれない。
 私は最近仏教は本当に大切なものであると感じている。そういうように感じさせてくだされる方々に多くであってきた。そういう中でお釈迦様は私たちに「大乗」という願いを伝えたかったのではないだろうかと思うようになってきた。大乗とは大きな乗り物のことでみんな一緒に救われていこう、生きていこうということである。現代的なおしゃれな言い方からすれば「共生」ということになるだろう。生きとし生けるものと共に生きていきたい、というとてつもなく大きな願いをお釈迦様は私たちに運ばれているのだろう。この願いが人間全てのものの願いとなるようはげまれたお方がお釈迦様というお方なだ。
 お釈迦様は自分のお弟子さん方に「不殺生戒」という生活規範を授けておられる。生きとし生けるものを殺して生きていきません。そういう生き方を私たち仏教徒に願われている。平気でいのちあるものを殺して生きないでほしいと私たちに願われているのがお釈迦様なのです。
 いのちあるものと共に生きてゆきたいという大いなる願いを私たちの眼の前に形として表現されたのが、いのちあるものを平気では殺しませんという殺生戒なのです。しかし、動物は、いや人間は、他なるものを殺すということで生きながらえている。自分が生きるということは他なる存在を殺すことである。そういうことが大乗という願いより、不殺生戒という仏教者の生活規範から知らされてくる。大乗という願いが自分の願いとなりたいと思う時、殺生戒のような生き方をしたいと心がける時、そうでない自分、大乗という願いとは全く逆の生き方を自分はしているということが知らされてくる。
 仏教徒であるということは大乗の精神を宝とし、不殺生戒のような生き方に少しでも近づいていく努力をする、忘れない、ということなのであろう。殺さない、殺されない、殺させない、そういう生き方が仏教者の生き方なのだろう。
 しかし私たち人間の歴史は戦争の歴史と言っても言い過ぎではない。殺し、殺され、殺さすそういう歴史の繰り返しが人類の歴史である。私たちの日本の歴史も例外ではない。
 今から六十年前まで私たちの国は戦争をしていた。その中で「万歳バンザイ」といって多くの人を戦争に送り出していった。人を殺し、殺され、殺させた。この歴史にであった私は快くバンザイはできない。本当にしたくない。

コメントする