110 大きな願いをいただいてこの世を生きる

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 年末になると「良い歳を迎えてください」という挨拶をしあうことがよくある。正直なところ私はこの挨拶がしっくりこない、こういう挨拶をされても同じように言い返せない。これは私が挨拶が苦手だからということもあるのだが、すっと言葉を返すことができないのである。「良い年って何なんだろう」なんてついつい考えてしまうからである。考えすぎといわれればそうなのかも知れませんが、でも考えてしまうのです。
 同じようなことで言えば「明けましておめでとうございます」という言葉もそうであった。なぜ年が明けるとめでたいのかよくわからなかったからだ。形としては年は変わるが、単に一日過ぎただけ、日が明けただけではないか、いつもと変わりがない、なんてひねくれて思ってしまっていたからだ。最近はそれがだいぶん薄れてきたが…。昔は自分の年齢も満年齢ではなく数え歳であった。だからみんな同時にお正月にひとつ年をとることになっていた。だから年をひとつとったからおめでたかったのだろうなっていうことが少しわかってきて、だいぶすねた思いが薄くなってきた。
 でも、「良いお年を」という言葉はいまだに私にはしっくりこない。誰しも「良い」ということを願うものではあるが、しかしその良いというのは誰に基づいているのだろうか。私たちが発想する良いとは私や相手が基本になってしまうものである。私たちが「良いお年を」といったときには自分と相手だけが幸せであればよいということなのです。そのほかはどうでもよいことなのだろうか。これでいいのだろうか。
 私たちが大切な教えとするお釈迦様が示してくださった「仏教」は、いのちあるものすべてと一緒に生きていきたいという大きな願いが基本となってできている教えです。その教えを宝としている私たちの幸せは「みんなの幸せ」であるはずです。また「みんな」といっても自分の知っている人すべてではなく、自分が出会っていない人も、自分の知らない人も、そして自分が大嫌いな人がみんななのです。この世にいのちをいただいて生きている人すべての幸せでなければいけません。「いのち」つながりの友達の幸せなのです。
 いのちあるもののみんなの幸せ、というのは考えれば考えるほど想像がつきません。また自分には不可能な世界であるように思えてきます。だからだめなのではなく、少しでも少しでもその世界に近づいていくのが私たちの仏教の教えなのです。大きな願いに向かって終わりなき道を歩み続けることが私たちの歩みなのです。
 第一歩として有縁の幸せ、知る人の幸せがあるのです。

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