109 精一杯の仏事

109.jpg 近年、お葬式や法事をはじめとする仏事が簡単になっている。簡単と言うことを別の言い方で言えば、苦労せずに催すことができるようになっている。以前では大掃除よりはじまり、お斎(法事後の食事)の準備まで家で行った。今はお斎は仕出しをとったり、外に食べにいったり、法事もお寺や式場を借りて催すことも増えてきている。だから家を片付ける必要もなくなってきている。これは準備等がいらなくて家族、特に女性の負担が少なくなり良いことであろう。
 しかし…、という思いも私の中にはある。一部の人の負担が無くなるということは本当に大事なことではあるが、でもコレでいいのであろうかとも思ってしまう。何か大事なものを忘れてきているような思いが私には残る。忘れてしまっているものは「精一杯の仏事」という気持ちではないだろか。
 最近お布施の金額についてよく相談される。その時私は最近「めいいっぱいください」と答えるようにしている。冗談のようにも聞こえるかも知れないが本気で答えている。聞く人は○○円としっかり答えてほしいようであるが私はそうは答えない。法事のお礼を「御経料」とか「供養料」とは書かずに「お布施」と書く。それは仏教の歴史が布施する気持ちを大切にしてきたからだ。仏法が私のところにまでやってきた喜びを表すものがお布施であるからだ。だから精一杯なのだ。
 めいいっぱいという気持ちはお金に換算すると人それぞれである。一円で精一杯の人もいるし、何千万円でも精一杯でない人もいる。めいいっぱい、精一杯の気持ちが大切なのだ。
 法事の準備をする中で、法事の準備を苦労する中でいろんなことが思い浮かんでくることであろう。なぜ自分はこんな大変なことをしているのかという思い、またまた同じ思いをしてきた先祖の思い…。
 仏事は表に現れる形は簡素になっても、簡単になってもいい。しかし仏事を勤める気持ちはめいいっぱいの気持ちを忘れてはならない。先祖が仏法に対して精一杯つくしてきたことを感じ、私たちも精一杯つくす気持をなくさぬよう心がけねばならない。

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