106 経は教なり

106.jpg

 二五〇〇年前にお釈迦様が説かれた仏教が今、日本に住む私たちのところにまでやってきており教えとして、信仰として伝わってきている。それは地域を越えて、民族を越えて、そして時代を超えて釈迦様のお話を大切なこととして生き抜かれた人々の歴史が、私のところにまでやってきているということであろう。
 一人の人間がどれだけ立派なことを説いたとしてもそれだけでは宗教にならない。その話が大切なこととしてうなずく人々がいなければ宗教にはならない。お釈迦様がどんなに立派な方であったとしても、お釈迦様のお言葉にうなずく人々がいなければ宗教として成り立たない。
 私たちの住む日本では、数え切れないぐらいの宗教が誕生し、政府に登録されているそうである。しかしその中で五〇年続くもの、一〇〇年続くものはどれだけあるだろうか。時代を超えて伝わる宗教は少ない。叉地域を越えて、民族を越えて伝わる宗教も少ないのである。
 今わたし達のところに仏教の経典が伝わってきている。お釈迦様の教えを尊ぶ人が生まれ、お釈迦様が亡くなられたあとでもその教えが人から人へと伝わる、口伝えで伝わっていく。やがて口伝えされたお釈迦様のお説教が文字に書きとどめられ経典となった。しかしその書物がただわたしのところまで伝わったのであれば昔話であり、古典文学であろう。しかしそうではなく、私たちのところに「教え」として伝わってきているのである。教えとしてこられた人々によって伝わり私のところにまでやってきているのである。
 しかしその歴史に触れながらも私たちは教えとして経典をいただいているだろうか。そのことが気になる。人ごとではなく私のこととして、私に問いかけたい。

 教えとは何だろう。私にとって教えとは何だろう。
 
 

コメントする