摂取心光常照護
攝取心光常照護
已能雖破無明闇
貪愛瞋懀之雲霧
常覆眞實信心天
譬如日光覆雲霧
雲霧之下明無闇
<試訳>
如来は常に我が身を照らし護ってくださっている
すでに闇夜は明けているのだけれども
我が煩悩の雲霧によって
信心の空を覆っているのである
それは太陽を雲霧が覆っていても
私のまわりは明るくて闇ではないようなものである
<尊号真像銘文>
「摂取心光常照護」というは、信心をえたる人をば無碍光仏の心光、つねにてらしまもりたまうゆえに、無明のやみはれ、生死のながきよ、すでにあかつきにな りぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」というは、このこころなり。信心をうればあかつきになるがごとしとしるべし。「貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心 天」というは、われらが貪愛瞋憎をくもきりにたとえて、つねに信心の天におおえるなりとしるべし。「譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇」というは、日月のく もきりにおおわるれども、やみはれて、くもきりのしたあきらかなるがごとく、貪愛瞋憎のくもきりに信心はおおわるれども、往生にさわりあるべからずとしる べしとなり。
光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。(観無量寿経)
ただ専ら阿弥陀仏を念ずる衆生あれば、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護して捨てず(観念法門)
彼の無碍光如来の名号は、よく衆生一切の無明を破す(浄土論註)
よく十方衆生の無明の黒闇を除く(浄土論註)
「水火二河」というは、すなわち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩うるなり。「中間の白道四五寸」というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなり。(散善義)
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