日頃感じている仏教行事についての疑問をQ&A方式でお答えいたします。
仏事に対する質問・疑問点などをお寄せください。できる限りお答えいたします。疑問・疑問はこちらへ
お布施というのは基本的に気持ちです。しかし個人的にいえばたくさんもらうとうれしく感じ、少なかったら悲しみを感じるものです。もう少しつっこん でお話しいたしますと、めいいっぱいしてくださいということです。基本的にお布施というのは法に対する施しであって、お経やお話をしてくださる人に施すも のではありません。「貴方は仏法に対していくら施せますか?」という問いかけでもあります。貴方にとって仏法が本当に大切なものであればたくさん施しをし てしまうものではないですか。
私の経験からお答えすると月参りのお布施は500円~5000円。法要のお布施は5000円から10万円ぐらいです。決まりがあってないようなもの なのです。また各地方によっても様々ではないでしょうか。
法要とは法の事を聞く、法の要を聞くということであろうと思います。ですから何時しなければならないということではありません。したいときにするも のです。法要はなくなった人のために行うものではありません。いうまでもなく死んだ人が化けてこないようにする(この世に帰ってこないようにする)儀式で も決してありません。やっぱり仏法が聞きたくなったときに行う行事です。
一般的には年忌という考え方によって催される人が少なくないわけではありません。しかし年忌は浄土真宗の教義的な根拠は全くありません。催したく なったときに催すとしかいいようがありません。年忌というものに絶対基づいてはいけないというものでもありません。
年忌に遅れて催してはならないという話も聞こえてくるのですが、教義的根拠は全くありません。慣習的なものです。そういうことをいわれる方がおられ るのでしたら、その年忌を飛ばして次の年忌として勤めてはいかがですか。
ちなみに浄土真宗の年忌というのは3・7・13・17・25・33・50だそうです。根拠はわかりません。ちなみに「かぞえ」で数えます。亡くなら れた年が「1」になるわけです。
江戸時代頃より始まった制度です。お寺を維持するために、そして幕府が民衆を管理するための寺請制度から始まった制度です。この制度が現代に合って いるのか、合っていないのか私たちひとり一人が考えるときになっているように思います。伝統的な「家」という概念が必要でないと考えている人が多くなって いるのではないでしょうか。核家族化し、「個人」が重んぜられる時代です。「檀家」というより「檀徒」いう考え方の方がいいのではないかと私は個人的に思 います。お寺と家というつながりではなく、お寺と個人、もっといえば僧侶と個人という関係の法が私は好きです。
だからといって「檀那寺」「お手次寺」を勝手に変わっていいというものではないと思います。自分に都合のお寺、宗教ということになると、教えを私有 化していることになるからです。変わりたいのならばお手次の住職さんとゆっくりその旨を話したらいいのではないでしょうか。
真宗門徒の生活で、こういうことをしなければならない、こういうことをしてはいけない、ということは何もありません。あるとするならば聞く姿勢を持 ち続ける、疑問を持ち続けるということでしょうか。
浄土真宗の教えは南無阿弥陀仏という念仏を称えやがて浄土に生まれるという教えです。ですから念仏を称えるということが大事です。となえるは唱える ではなく称えるです。となえるという時にはかなうという意味があります。ですから口にただ唱えておればいいのだということでもないと思います。
先輩方がいわれていることは「朝夕の勤行」ということです。毎朝、夕方に親鸞聖人がお作りになった正信偈といううたをお勤めするのです。毎日毎日正 信偈のうたを自分で読み、聞くということだろうと思います。
そういうおまえはしているのかと聞かれると非常に困ります。私は早寝遅起きの坊主です。でもいいわけをすれば、毎日おつきあいのある家に行ってかく 家々のお内仏(仏壇)の前で正信偈のお勤めをしていますので…。しかし読んでいるかといわれれば、何ともいえません。ただ聞かなければならないという気持 ちは持っているのですが。
真宗門徒にとって一番大事な年間の行事です。簡単にいえば祭りと正月がいっぺんにきたようなものです(私見)。報恩講-恩に報いる仏事です。誰のご 恩なのか。ご先祖さんとお答えになられる方もいますが、私は、阿弥陀さん、親鸞さん、そして念仏の教えを伝え残してくださった諸先輩方でないかと思いま す。ここにご先祖さんが入るかは入らないか。貴方はどう思いますか?貴方にとってどうですか?
とにかくみんなが集い、親鸞さんが作られた正信偈を読み、仏法を聞き、自分(自分たちの)の生き様を振り返り、振り返ったものをふまえて新しい歩み をする契機となるための行事では…、と私は思っています。
ちなみに東本願寺というところでは親鸞聖人の祥月命日の11月28日を最終日として七昼夜勤められます。真宗の各寺院はその前後に報恩講を勤めると ころが多いです。
みなさんも各家々で報恩講をお勤めになりませんか?
葬儀は華美にしないというのが基本ではないでしょうか派手にしたから亡くなられた方が救われる、反対に地味であったから救われないということは決し てありません。浄土真宗の教えでは亡くなられたらすぐにお浄土へ帰って行かれるといわれています。阿弥陀如来様の働きによってお浄土へ帰って行かれるので すから私たちが「行っただろうか、行かないだろうか、化けてでないだろうか」というような心配は一切必要としません。
目に入るお寺は立派な伽藍(建築)を構えています。ましてや観光寺院と呼ばれるものはそれを売りにしているのですから言うまでもありません。
浄土真宗の寺院は聞法の道場と位置づけています。仏法の話を聞く場所という意味です。皆さんが仏様のお話を聞いていただくためにあるのです。他宗と は違い特定の人が修行をする場所ではなく、あらゆる人が仏様のお話に出会う場なのです。真宗本願寺の本山である東本願寺(真宗本廟:しんしゅうほんびょ う)は世界で最大級の木造建築であります。それは宗派の力を示すという意味もあるのかも知れませんが、それよりもその本堂が報恩講を催すときなどには満堂 になるという事実です。それだけの人々が本願寺に集ったと言うことです。真宗のお話を聞きに来られたという事なのです。
あくまでも存在意義は聞法の道場です。その目的を果たさなくなったお寺はある意味で、存在価値がなくなったと言うことです。私が住職を勤めているお 寺も今そういうことが問われています。お寺は何故あるのでしょうか。お寺に住む者も、お寺にご縁のある方もそのことを真剣に考えなければなりません。本当 に今と割れているのです。
皆さん親鸞聖人の教えに出遇うためにお寺に行きましょう。
蝋燭には基本的に和蝋燭と西洋蝋燭があります。特徴は和蝋燭は消えにくい、炎がきれい、煤がでる、火がつきにくいです。西洋蝋燭は風などあればすぐ 消える、炎が単調、煤がでない、簡単に点火できる、火の温度が高いです。伝統的には和蝋燭を用いてきました。上記の特徴を考えられて皆様でお選びになられ お使いください。で切れは報恩講、法要の時は和蝋燭を使っていただければいいのではないかと思います。
大谷派では四色の色を使います。基本的には朱色(赤)の蝋燭を使います。めでたいから朱色を使うというわけではないようです。伝統的 に日常は朱色を使っています。弔事の時は銀溜(銀色・銀箔が貼ってあるもの)の蝋燭、慶事は金溜(金色・金箔が貼ってあるも の)といわれています。すべての蝋燭の代用として白色の蝋燭が使われています。