常入寺発行品の最近のブログ記事

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今年月参りの中で拝読する御文は五帖目第二通 八万の法蔵です。
ご一緒に拝読いたしましょう

それ○八万の法蔵をしるというとも●後世をしらざる人を愚者とす●たとい一文不知の尼入道なりというとも●後世をしるを智者とすといえり●しかれば当流のこころは●あながちに、もろもろの聖教をよみ●ものをしりたりというとも●一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし●されば聖人の御ことばにも●一切の男女たらん身は●弥陀の本願を信ぜずしては○ふつと、たすかるという事あるべからずと、おおせられたり●このゆえに、いかなる女人なりというとも●もろもろの雑行をすてて●一念に弥陀如来、今度の後生たすけたまえと●ふかくたのみ申さん人は●十人も百人もみなともに●弥陀の報土に往生すべき事●さらさらうたがいあるべからざるものなり●あなかしこあなかしこ

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ご法事にお遇いすると、その場では「にょせがもん、むにゃむにゃ...」と何を言っているかわかりにくいかも知れませんが、お経が読誦されます。お経とはお釈迦さまが私たちに説かれた教えが書き留められています。お釈迦さまのお弟子さんたちがお釈迦様の教えとして聞き取った言葉を後の時代文字に書き直したものがお経です。当然のことですが、はじめは昔のインドの言葉、お釈迦さまが使われていた言語で書き表されていました。それを中国の人が、私たちの言葉読みたい、書き表したいと思われ、何度も中国からインドへ経典を取りに行ったり、お経を中国の言葉に翻訳したりするという事業をなさいました。今私たちが目にしているお経様はそれです。日本では漢語をそのまま読み取るということが文化として以前はありましたので、お経が日本語に翻訳されるということはあまりさせませんでした。しかし漢語に親しむということが無くなった今、お経様が読誦されていても何を言っているかわからない、呪文を称えているようにしか思えなくなってしまっているのです。
法事においてお経を読誦する僧侶は仏様に向かって読んでいますので、一見すると仏様に捧げるものであるように見えますが、そうではありません。お経は仏様から現代を生きる私たちにたむけられているものです。読誦している僧侶も仏様の教えとして聞いているのです。僧侶も、参詣者も共に仏様の教えを聞くという事が形取られているのが法事です。
 先祖を供養するためにという願いで法事が勤められる場合が多いですが、その場でお経様が読誦されてきた願いを私たちは訪ねていかなければ行けません。お釈迦様の教えを教えとして聴き、相続していく歩み姿勢が何よりも尊いことなのでしょう。お経様を相続して、お釈迦様の教えを教えとして聞き続けていくことが先祖を供養することにつながると考えられてきたことでしょう。 法事を催し先祖の願いを訪ねていくことも法事を催す大切な目的です。自分の思いを先祖に向けていてもあまり意味のないことです。

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法事は年忌に基づいて私たちに災いがこないようにするため先祖に勤めるものであると考えておられる方は少なくはないと思います。しかし本来的意義からすればそうであるとはいえません。法事は法の事と書き、もう少し字を付け加えると仏法の要の事を聞くとなります。法要も同じ事であります。お釈迦様がお示しになられた仏法を私が聴聞する「聞く」行事が法事なのであります。

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葬儀ってなに?
「葬儀」とは、葬儀に参列された方のひとり一人が、身近な人の死という悲しい出来事をとおして、真実の教えに出遇うことによって、自分自信の在り方を根本的に見つめ直すことです。
 身近な人の死は私たちの心をゆさぶり、今の日常が永遠に続くかのように錯覚して暮らしている私たちに「やがて死んでいく身をどう引き受けて生きていくのか!」と問いかけているのです。
 しかし私たちは「安らかにお眠りください」「ご冥福をお祈りします」というような表現で、亡き人に対して心を配ることが「葬儀」であるのだと思い違いしているのではないでしょう
か。
 大切なことは、亡き人から問われている自分自信の生き死にの問題を念仏の教えに聞き開こうとする心であります。ですから葬儀は宗教儀式として行なわれるのです。
清めの塩は使いません

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