御文を戴くの最近のブログ記事

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みなともにⅡ
 阿弥陀如来様はこの御文にあるように「みなともに」救おうと願われて私達のところに南無阿弥陀仏という言葉を運んでくださっています。だからこそ私が救われていくことが可能なのでありしょう。しかし皆救おうとされてお造りになられたお浄土へ私たちはどのような思いで生まれようとしているのでしょうか。
 いつも自分中心で、自分のことしか考えれず、自分の幸せを中心として考えてしまう生活しかできてないと、何とも申し訳ない気持ちになればいいのでしょうけど、そのことにも気付かず、頷かず当たり前のこととして生活してしまってます。と言うか、そういう私の姿が、みなともにという阿弥陀如来様の深く大きい願いから照らし出されていることなのでしょう。そういう私の姿を映し出す働きを私達の先祖、念佛を唱えられてきた先輩方は、阿弥陀さまとおっしゃってこられたのではないでしょうか。阿弥陀の救いもう始まっているのです。その働きに気付くようアンテナの感度をあげていきましょう

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先日9月上旬ようやく東日本大震災の被災地に行ってきました。青森県に住む私の友人が定期的に岩手県の山田町と大槌町に支援活動をしています。そのお手伝いをさせていただきました。
被災地に入ると私たちが目をふさぎたくなる現状が目に入ってきました。ここに住宅があったであろうというところに家はなく、草が生えていました。瓦礫は集められていますが津波の痕跡はまだまだ目の前に現れています。それが東北地方の海岸部全部なのだろうと考えると、何ともいえません。
訪れた仮設住宅では過去を背負いながらも生きようという力を感じました。またその支援活動の時お米を配っておられたのですが、皆さん喜んで受け取っておられる姿が目に入りました。
そこで「ごはん いっぱい プロジェクト」として当寺の報恩講、御正忌を勤める11月末日までを心がいっぱいこもった新米を友人を通して被災者のの方々に運ぶということを計画しています。
すでに募金活動など支援活動をされている方は少なくないかと存じますが、御協力ご賛同いただければ幸いです。

当寺の玄関に箱をおいておきます。思い立ったときビニール袋などにごはん茶碗一杯分以上のお米を入れていただきお運びください。また寺のものが月参りの際お渡しくだされても結構です。
こころいっぱいの新米をお預けくだされば被災地にお米と皆様のお心をお運びいたします。
常入寺住職 青井和成
 
募集物資:新米(今回は新米に限らさせていただきます)
 生活必需品(シャンプー・石けん など)
 長期間保存可能な食料品
 (乾麺・しいたけ・昆布 など)


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 阿弥陀如来が佛となられるとき誓いになられた願いを私たちの先輩方は「本願」と呼んでこられました。その願いは私たちが正依としますお経には四十八種類の誓いが記されています。ですから本願のことを四十八願とも言うわけです。
 阿弥陀仏はわたしたち人間の生き方を見られ、悲しまれ、何とかしなければならないと強く決意なさって、佛となられました。佛という位につかれた阿弥陀仏は、私たちに救われるために佛なる私が作った世界に生まれたいと思うものを必ずその世界に生まれさせようと、お約束くださっています。そして今私たちに阿弥陀の存在、阿弥陀の願を知ってもらうために私たちに「南無阿弥陀仏」という言葉をお運びくださり、私のまわりで阿弥陀仏をほめ称える声として「南無阿弥陀仏」という声を響き渡らせてくださっているのです。
 本願を信ずるということは、この阿弥陀如来様が願われている本願を信じ念仏申すということであります。そのことに尽きるわけです。しかし、私たちが簡単に本願を信じて迷いなく南無阿弥陀仏とお念仏を申すことができれば、阿弥陀仏は強い決にて佛という位につこうとは思われなかったのではないでしょうか。私たちを哀れみ悲しまれるということはされなかったと思うのです。信ずることができればそれに越したことはないのでしょうか、そんな簡単に私たちが本願を信じ念仏申すとも阿弥陀仏は思ってはおられないのではないでしょうか。
 阿弥陀仏は私たちのもとに今お念仏をお運びくださるというお仕事をなさっておられるわけですが、もう一つ、大きなお仕事、お働きをなさっています。私たちが心から本願信じ念仏も失せるよう働きかけ続けてくださっているのです。私たちは本願信じ念仏申すしかたすかる道はないという事実をお教え続けてくださってます。太陽のように輝かれ私たちに光を当ててくださってます。阿弥陀仏が哀れみ悲しまれた私たちの姿を私たちに伝えんがために。罪悪深重煩悩熾盛なる姿、罪深く煩悩に満ちて迷い続けているその事実に気づけと私たちのありのままを明らかになさっているのです。
本願を真実ということはある意味、阿弥陀仏が私たちに指し示してくださっている私たちの姿を人汁、その事実に頷くということとも言えるととと思うことなのです。
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一念の信心
 信心と言えば私たちは私たちが仏様を対象として信じることを思うのではないでしょうか。しかし最近私は浄土真宗ではちょっと違っているというか、ちょっとずれているような気がしているのです。私たちこの世に生きる凡夫は、仏様を直接拝むということはできません。何がまことで仏様の存在を知らないのが凡夫なのですから。なおさら対象がはっきりしないものを信じるというのは私たち凡夫には不可能なことなのではないでしょうか。私たちは姿を感じて阿弥陀仏を感じるのではなく、どこまでいっても阿弥陀仏のはたらき、慈悲にを感じることによって阿弥陀仏との出会いが成立するのです。またお釈迦さまが説かれたお説教が書きとどめられているお経や、お経を大切な教えとして頂かれてきた歴史によって阿弥陀仏の存在が知らされるのです。
 阿弥陀仏がはっきりしないものがどこまで阿弥陀仏という存在を信じていくことができるでしょうか。私は私たち念仏を称えるものが信じるのは、阿弥陀仏という人格化した存在を信じていくと言うより、阿弥陀仏が佛となられた誓願を信じていく、大切にしていくことが浄土真宗の信心でないかと最近思うのです。
 阿弥陀仏は世自在王仏という仏様に仕え佛となっていかれた方です。そしてその中で自分はなぜ仏になるのかという自分の願いのもとを訪ねる学びをされました。その中であらゆる人々をすくい取っていく佛となることを誓われていったのです。私たちはそういう願いをもたれた阿弥陀仏のはたらきによって救われていくのです。しかし、私たちを救ってくだされるのは私たちへのご褒美としてでは決してありません。おまえは立派だ、素晴らしい生き方をしたとほめてくださり私を浄土に生まれさせてくだされるのではありません。その反対なのです。このままだとたすかっていかない、どうしようもない生き方しかしていない私たちの生き方を見て悲しまれ、どうしようもなくなり私たちを救ててくださるのです。親が歩き始めた我が子を心配そうに見つめているその視線の奥にある子どもにたいする思いと似たような思いで私たちの生活を見つめ心配しておられるのです。
 その阿弥陀仏の願いを大切にしていこうとすることが大切だと思うのです。また私たちは阿弥陀仏に救ってもらわないとどうしようもない生き方をしている、そういう私を知っていくこと、阿弥陀仏がなぜ私たちをあわれんでおられるのかというわけに我が身の生き方を通して頷いていく歩みが、私たち浄土真宗の信心とも言えることだと私は最近強く思わせてもらっています。
 私たちを救わざるをえないわけが、今テレビなどのニュースを見ていて思わず目をふさぎたくなってしまう、残虐な事件を通して知らせて頂いていることなのではないでしょうか。


<<ご報告>>
先般常入寺総会が開催され、任期満了に伴い常入寺門徒新総代が
(長)安川 武志さん
    吉岡 義春さん
上のとおり選出されました。ご報告いたします。



老田釈尊降誕会
日時 4月2日(土)午後1時より
会場 乗福寺(中老田)
主催 老田仏教会
釈尊降誕会は花まつりとも言い、お釈迦様がこの世にお生まれになられたことをお祝いする仏事です。お釈迦さまの誕生会と言っても良い行事です。
お釈迦様の誕生日を縁としてお釈迦様のお仕事を確かめましょう。ご近所の方々をお誘いの上お参りください。



城端別院
御法宝物御巡回

3月9日(水)
 午前9時30分より
午後3時30分まで
会 場 常入寺庫裡座敷
布教使 正門 武士 師


ご命日の集い
三月から再開します
ご命日の集いとは私たちの宗祖、親鸞聖人のご命日である二十八日に開催する仏事です。常入寺では三月から九月の間の毎月二十八日に勤めています。何をやっているのかといえば、実は難しいことは何もありません。宗祖親鸞聖人がお造りになられた「正信偈」といううたをみんなで節を付けて読んで、後はお茶を飲んでいるだけです。
それだけです。
皆さんも月に一度お寺に集いお茶しませんか?
どうぞお気楽に顔をお見せ下されれば幸いです。
お待ちいたしております。

毎月二十八日
午後二時~三時ぐらいまで
とにかく一回来てくだはれま!
たのんちゃ
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しかれば、当流のこころは、あながちに、もろもろの聖教をよみ、ものをしりたりというとも、一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし。
 聖教というのはお釈迦さまのお説教が記されている御経や、仏様の教えを諸先輩方が分かり易く説かれている書物を言います。蓮如上人はこのお聖教を読んで言葉の意味などを理解しても、「一念の信心」ということが頂けなかったら、もったいないことだと仰っておられます。言い換えれば、お聖教を読む意味は、「一念の信心」のいわれを知るためにあるのだと言うことなのでしょう。それ以外の目的で読んでも、あまり意味がないと言うことです。
 私たち真宗門徒は毎朝阿弥陀さまの前に座り、正信偈を読むことは日課と定められてきました。また毎月などお寺さんがきて月参りをされるとき後ろに座り、正信偈などを一緒に読誦する機会がよくあります。私たちには良くお聖教を読む機会が良くあるわけです。その意義は一念の信心のいわれを聞くことにあると言えるのではないでしょうか。
 自分の幸せのため、個人的な、自分勝手な願いを叶えるためだけにお経を読んでいるのではないと言うことは言えることです。

※02/18城端別院の巡回の日程が決定しましたので、内容を変更しました。 
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城端別院
御法宝物御巡回

3月9日(水)
 午前9時30分より
午後3時30分まで
会 場 常入寺庫裡座敷
布教使 正門 武士 師

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御文をいただく 其の十二 5帖目第二通③
 蓮如上人がおが書きになられた御文の中で私の好きな御文の一つがこの御文です。だけど少し気になる表現もあるのもこの御文です。どこが気になるのかと言えば
たとい一文不知の尼入道なりというとも
というところなのです。
 なぜ八万の法蔵を知るものの反対の言葉が一文不通の尼入道なのか、と思うのです。尼入道という言葉は必要ないのではないかと私は思うのです。蓮如上人の女性に対する差別心のようなものを感じてしまうのです。いうまでもなく蓮如上人は女性弥陀の慈悲によってすくわれていくということをよくおっしゃっられたお方です。その方がなぜこういう表現をされるのだろうかということを現代医社会を生きているわたしは疑問に持ってしまうのです。
 ただ蓮如上人が生きておられた時代は女性に対する偏見は今以上にすごい時代だったことは間違いありません。社会の常識として、男性より女性は救われがたいものという考え方があたりまえのこととしてありました。というか根強かったわけです。その中で女性が救われるのだと強調することは本当に意味のあったことだったことでしょうし、女性に生きる力を与えた言葉なのでしょう。
 しかし現代は女性に対する偏見が全くない時代とは言えませんが、そういうふうになることを願っている人が沢山いる時代です。女性が解放されていくことを願い、男女が共に生きていける世界を願っているものにとって今、蓮如上人のこと言葉が力になるとは私は思えないのです。今の時代には響かない言葉になってしまったということは間違えないことでしょう。
 さて、後世を知らないものが浄土門を求めるものにとっては愚か者であり、後世を知る者が智者だと言われています。しかし智者は知る者とは書かれていません。智慧の智が使われています。ということは浄土真宗では愚か者の反対の言葉は、知識を沢山持ったものということではなく、仏の智慧を知る者、仏智のはたらき(恵み)を知っている人となることなのでしょう。そして、知識あるものは必ず智慧を知っていることにはならないということです。仏道を歩むということはあらゆる知識を頭の中に詰め込んでいく道ではなく、仏智より知らしめる我が身の後世について頷いていく道なのではないでしょうか。

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御文をいただく 其の十一 五帖目第二通②
それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
 この文章は私たちはなぜお聖教を読むのかという事が端的に記されているところであります。後世を知るためにお聖教があるのだと蓮如上人は教えてくだされているのです。後世というのは後の世という事で死んだ後の事と理解されてもかまいませんが、もう少し広く、今より後、私の未来すべてと理解した方が現代を生きる私たちにとってはこの言葉のお心がとらえやすくなるのではないかと私は思います。私のこれからを知るためにお釈迦さまのお説教が書留められているお経様をはじめとするお聖教があるのだ、そのことを求めずお聖教を読むのは本当に勿体ない事なのですよと、私たちに蓮如上人は語りかけてくださっているのです。
 私たちはこのままのありようで生活していっても安泰なのでしょうか。現在ただ今の自分を知り、また、今までの自分の有り様振り返ると、私の未来は?何とかなるさ、と本当に言い切れるでしょうか。大丈夫ではないとお聖教は常に私たちに語りかけてくださっています。
 善導大師というお方は
「読誦大乘」と言うは、これ経敎はこれを喩うるに鏡の如し、数々又読み数々尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、即ちよく苦を厭いて涅槃等を欣樂することを明す。
と仰っておられます。自分の全部の姿というものは私たちは直接私の目で見る事ができません。私たちは一部しか見ることができてないのです。私の姿を全部見ようとすれば、私の姿を映し出してくれる道具が必要なのです。水面や鏡がそれです。私の形としての姿も一部しか知りようがありませんが、私の人生の相も同じです。一部しか知り得ていません。ただ知ったつもりでいたり、見て見ぬ振りをしているのが私たちではないでしょうか。見えていないところを、見ようとしていないところの自分ををお聖教は指し示してくださっているのです。
 私たちが知り得てなかったり、知ろうとしてない自分のすがたとはとういうものなのでしょうか。蓮如上人は良く「後生の一大事」と言う事をよく言われます。またこの御文には「後世」という言葉が何度か出てきます。このままで本当に大丈夫なのか、とお聖教が私たちに問いかけでくださり、その大丈夫ではない証拠を常に指し示してくださっているのです。お念仏を頂いていくしかない身をお聖教は私たちに鏡のように映し出してくださっているのです。
 そのことに頷き続けていく、そのことが本当に尊い事であったと気づき続けていくのがお念仏の歩み浄土往生の道なのです。
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御文をいただく 其の十帖目第二通①八万の法蔵
 法蔵とは仏法の蔵、仏法が納められているものという意味で仏教教典のことを言います。今、現存している仏教教典は八万あるというふうに言われています。正確に八万冊あると言うよりは、満数として、多いという意味で八万という数が用いられているのでしょう。言うまでもありませんが、正直性格に私はいくつあるか仏教教典の数を数えたことはありません。あしからず。
 教典とは、お釈迦さまが説かれたお説教が書留められている「経」、そして菩薩という位の方が書かれた「論」、そしてその他の方が書かれた「訳」に細かく分類されることもあります。私たち浄土真宗では、正依、まさしくよりどころとすべき経として、浄土三部経があります。浄土三部経とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を言います。また無量寿経は元もと昔のインドの言葉か書留められていたものを中国の言語に翻訳されるという事業が十二回なされたと言い伝えられていますが、現存して今読むことのできるものは5種類しかありません。その中で私たちは、今から約千八百年前の康僧鎧という方が翻訳されたものをよりどころとしています。
 論としては、龍樹菩薩がお書きになられた『十住毘婆沙論』天親菩薩様がお書きになられた『浄土論』が選ばれています。また、親鸞聖人は、『浄土論』の本釈書である『浄土論註』という書物も論として位置づけられている気配も見受けられます。訳としては、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信大師、源空上人などがお書きになられたものを正依の論として選ばれていることでしょう。
 仏教をひらかれたお釈迦さまは私たちに教えを伝えるために書物をお書きになられたと言うことはありません。そのとき、その人が理解しやすい言葉でお語りになられています。そのお説きになられたお言葉を直接聞かれた方々が頭で覚えて人に伝えられていましたが、お釈迦さまがお亡くなりになられてしばらくしてから、後の世にしっかりお釈迦様の教えを伝えていこうと言うことになり、お釈迦さまのお説教を聞かれた方々が集まられ、文字で書き残す作業をされました。それが、仏教経典の始まりです。ですから最初の教典は昔のインドの言葉で書かれています。しかし、今私たちが目にする経典は漢字で書かれています。それはインドの言葉で書かれていた経典を忠告の言葉に書き換えられた人がいたからです。自分たちの国の言葉で書き換えて多くの人に仏教に触れてもらいたいという大きな願いがあったからです。その願いの置くにはお釈迦さまのお言葉に触れ尊い教えと頷かれた事実があるからです。
 今を生きる私たちは、お釈迦さまというエライ人が語った言葉が経典には書かれているという理解だけではなく、経典に書かれている言葉に触れて、私にとって尊いことが書かれていると頷くことが本当に大事なことなのでしょう。
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御文をいただく 其の九 五帖目第一通⑨
《試訳》
仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて遙かなる時間が経ち、直接お説教を聞くことが出来ない今を生きている私たちは、こころをひとつにして阿弥陀仏に浄土往生を深くたのみ、更にはあれやこれやとさまざまな神仏に頼まず、こころをひとつにしてこころより阿弥陀仏に助けを請えば、たとえどんな罪深い生き方をしてこようが、必ず阿弥陀如来はお救いくださるのです。
これは、阿弥陀仏が佛となられるときに誓われた時のお心です。だから、このように自分のこれからの人生で頼るべき事がはっきりしたならば、意識して、また夢の中でもいのち尽きるまでお念仏をもうなさければならないものなのです。
あなたに敬いを込めて。
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五帳目第一通⑧
 称名の称という字は私たち念仏の歴史の中にいるものは簡単に「となえる」と読んでいきますが、どちらかといえば本来は「たたえる」と読む場合の方がおおような気がします。また漢字が出来上がった歴史を訪ねていくと「はかる」という読み方が基本なのかも知れません。
 称名ということは声に出してなをとなえるということなのですが、ただ声に出して称えていれば終わることではなく、名にかなうように、名に近付くように称えていくことが漢字の意味を尋ねていくと大切なことでしょう。自分が助かっていく道具として念仏を称えていくということではなく、念仏によって救われていくのだ、阿弥陀の摂取不捨というすべてのものを摂めとり捨てないという広い願いによって、如来の大いなる悲しみによって私がたすかっていくのだと心に刻み阿弥陀如来の名を、南無阿弥陀仏ととなえていくことが大事なことなのでしょう。それが唱名でなく称名の所以なのでしょう。
 蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきものなり」と勧めてくださっています。それは義務という意味ではなく、阿弥陀の本願に出会ったとき私はつねに、いのち終わるまでいつもかも念仏を称えて行かなければならない我が身ということが明らかになってくる、ということを教えてくださっているのです。
 念仏に出会い自分自身では知り得ない本当に我が身を知っていくことが私たちには大事なことです。
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本 願
 阿弥陀如来が佛と認められるときに誓った誓願を本願といいます。また私たちが正依にしている経典、仏説無量寿経にはその誓願が四十八通りの誓いから成り立っているので四十八願ともいいます。この本願をもとに阿弥陀仏の浄土という世界が建てられています。そういう意味で言えば本願は浄土の憲法ともいうべきものであります。その本願の中心的誓願が十八番目に誓われていて、念仏往生の願(誓願)といわれています。
 阿弥陀如来は以前は法蔵菩薩という菩薩様でした。法蔵菩薩は仏になるため世自在王仏という仏様に使えて仏となるための勉強を五劫という私たち人間の思いをこえた長い時間の間されました。法蔵菩薩の学びは、自分は何故仏になりたいのか、仏になって私は何をしたいのか、という自分の思いの奥底にある願いを訪ねるような学びでした。そのためにすでに仏となられた方々の浄土の世界、その世界の人々を観察されたのです。そして本願をあらわされたのです。
 阿弥陀仏は本願の第十八番目には「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。」と私のつくった浄土に本当に生まれたいと心の奥底から願った者がいるのなら皆生まれさせたいと誓われ、そしてその違いが今すでに成就しているのです。

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