御文を戴くの最近のブログ記事

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御文をいただく 其の十一 五帖目第二通②
それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
 この文章は私たちはなぜお聖教を読むのかという事が端的に記されているところであります。後世を知るためにお聖教があるのだと蓮如上人は教えてくだされているのです。後世というのは後の世という事で死んだ後の事と理解されてもかまいませんが、もう少し広く、今より後、私の未来すべてと理解した方が現代を生きる私たちにとってはこの言葉のお心がとらえやすくなるのではないかと私は思います。私のこれからを知るためにお釈迦さまのお説教が書留められているお経様をはじめとするお聖教があるのだ、そのことを求めずお聖教を読むのは本当に勿体ない事なのですよと、私たちに蓮如上人は語りかけてくださっているのです。
 私たちはこのままのありようで生活していっても安泰なのでしょうか。現在ただ今の自分を知り、また、今までの自分の有り様振り返ると、私の未来は?何とかなるさ、と本当に言い切れるでしょうか。大丈夫ではないとお聖教は常に私たちに語りかけてくださっています。
 善導大師というお方は
「読誦大乘」と言うは、これ経敎はこれを喩うるに鏡の如し、数々又読み数々尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、即ちよく苦を厭いて涅槃等を欣樂することを明す。
と仰っておられます。自分の全部の姿というものは私たちは直接私の目で見る事ができません。私たちは一部しか見ることができてないのです。私の姿を全部見ようとすれば、私の姿を映し出してくれる道具が必要なのです。水面や鏡がそれです。私の形としての姿も一部しか知りようがありませんが、私の人生の相も同じです。一部しか知り得ていません。ただ知ったつもりでいたり、見て見ぬ振りをしているのが私たちではないでしょうか。見えていないところを、見ようとしていないところの自分ををお聖教は指し示してくださっているのです。
 私たちが知り得てなかったり、知ろうとしてない自分のすがたとはとういうものなのでしょうか。蓮如上人は良く「後生の一大事」と言う事をよく言われます。またこの御文には「後世」という言葉が何度か出てきます。このままで本当に大丈夫なのか、とお聖教が私たちに問いかけでくださり、その大丈夫ではない証拠を常に指し示してくださっているのです。お念仏を頂いていくしかない身をお聖教は私たちに鏡のように映し出してくださっているのです。
 そのことに頷き続けていく、そのことが本当に尊い事であったと気づき続けていくのがお念仏の歩み浄土往生の道なのです。
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御文をいただく 其の十帖目第二通①八万の法蔵
 法蔵とは仏法の蔵、仏法が納められているものという意味で仏教教典のことを言います。今、現存している仏教教典は八万あるというふうに言われています。正確に八万冊あると言うよりは、満数として、多いという意味で八万という数が用いられているのでしょう。言うまでもありませんが、正直性格に私はいくつあるか仏教教典の数を数えたことはありません。あしからず。
 教典とは、お釈迦さまが説かれたお説教が書留められている「経」、そして菩薩という位の方が書かれた「論」、そしてその他の方が書かれた「訳」に細かく分類されることもあります。私たち浄土真宗では、正依、まさしくよりどころとすべき経として、浄土三部経があります。浄土三部経とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を言います。また無量寿経は元もと昔のインドの言葉か書留められていたものを中国の言語に翻訳されるという事業が十二回なされたと言い伝えられていますが、現存して今読むことのできるものは5種類しかありません。その中で私たちは、今から約千八百年前の康僧鎧という方が翻訳されたものをよりどころとしています。
 論としては、龍樹菩薩がお書きになられた『十住毘婆沙論』天親菩薩様がお書きになられた『浄土論』が選ばれています。また、親鸞聖人は、『浄土論』の本釈書である『浄土論註』という書物も論として位置づけられている気配も見受けられます。訳としては、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信大師、源空上人などがお書きになられたものを正依の論として選ばれていることでしょう。
 仏教をひらかれたお釈迦さまは私たちに教えを伝えるために書物をお書きになられたと言うことはありません。そのとき、その人が理解しやすい言葉でお語りになられています。そのお説きになられたお言葉を直接聞かれた方々が頭で覚えて人に伝えられていましたが、お釈迦さまがお亡くなりになられてしばらくしてから、後の世にしっかりお釈迦様の教えを伝えていこうと言うことになり、お釈迦さまのお説教を聞かれた方々が集まられ、文字で書き残す作業をされました。それが、仏教経典の始まりです。ですから最初の教典は昔のインドの言葉で書かれています。しかし、今私たちが目にする経典は漢字で書かれています。それはインドの言葉で書かれていた経典を忠告の言葉に書き換えられた人がいたからです。自分たちの国の言葉で書き換えて多くの人に仏教に触れてもらいたいという大きな願いがあったからです。その願いの置くにはお釈迦さまのお言葉に触れ尊い教えと頷かれた事実があるからです。
 今を生きる私たちは、お釈迦さまというエライ人が語った言葉が経典には書かれているという理解だけではなく、経典に書かれている言葉に触れて、私にとって尊いことが書かれていると頷くことが本当に大事なことなのでしょう。
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御文をいただく 其の九 五帖目第一通⑨
《試訳》
仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて遙かなる時間が経ち、直接お説教を聞くことが出来ない今を生きている私たちは、こころをひとつにして阿弥陀仏に浄土往生を深くたのみ、更にはあれやこれやとさまざまな神仏に頼まず、こころをひとつにしてこころより阿弥陀仏に助けを請えば、たとえどんな罪深い生き方をしてこようが、必ず阿弥陀如来はお救いくださるのです。
これは、阿弥陀仏が佛となられるときに誓われた時のお心です。だから、このように自分のこれからの人生で頼るべき事がはっきりしたならば、意識して、また夢の中でもいのち尽きるまでお念仏をもうなさければならないものなのです。
あなたに敬いを込めて。
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五帳目第一通⑧
 称名の称という字は私たち念仏の歴史の中にいるものは簡単に「となえる」と読んでいきますが、どちらかといえば本来は「たたえる」と読む場合の方がおおような気がします。また漢字が出来上がった歴史を訪ねていくと「はかる」という読み方が基本なのかも知れません。
 称名ということは声に出してなをとなえるということなのですが、ただ声に出して称えていれば終わることではなく、名にかなうように、名に近付くように称えていくことが漢字の意味を尋ねていくと大切なことでしょう。自分が助かっていく道具として念仏を称えていくということではなく、念仏によって救われていくのだ、阿弥陀の摂取不捨というすべてのものを摂めとり捨てないという広い願いによって、如来の大いなる悲しみによって私がたすかっていくのだと心に刻み阿弥陀如来の名を、南無阿弥陀仏ととなえていくことが大事なことなのでしょう。それが唱名でなく称名の所以なのでしょう。
 蓮如上人は「寝ても覚めてもいのちのあらん限りは称名念仏すべきものなり」と勧めてくださっています。それは義務という意味ではなく、阿弥陀の本願に出会ったとき私はつねに、いのち終わるまでいつもかも念仏を称えて行かなければならない我が身ということが明らかになってくる、ということを教えてくださっているのです。
 念仏に出会い自分自身では知り得ない本当に我が身を知っていくことが私たちには大事なことです。
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本 願
 阿弥陀如来が佛と認められるときに誓った誓願を本願といいます。また私たちが正依にしている経典、仏説無量寿経にはその誓願が四十八通りの誓いから成り立っているので四十八願ともいいます。この本願をもとに阿弥陀仏の浄土という世界が建てられています。そういう意味で言えば本願は浄土の憲法ともいうべきものであります。その本願の中心的誓願が十八番目に誓われていて、念仏往生の願(誓願)といわれています。
 阿弥陀如来は以前は法蔵菩薩という菩薩様でした。法蔵菩薩は仏になるため世自在王仏という仏様に使えて仏となるための勉強を五劫という私たち人間の思いをこえた長い時間の間されました。法蔵菩薩の学びは、自分は何故仏になりたいのか、仏になって私は何をしたいのか、という自分の思いの奥底にある願いを訪ねるような学びでした。そのためにすでに仏となられた方々の浄土の世界、その世界の人々を観察されたのです。そして本願をあらわされたのです。
 阿弥陀仏は本願の第十八番目には「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。」と私のつくった浄土に本当に生まれたいと心の奥底から願った者がいるのなら皆生まれさせたいと誓われ、そしてその違いが今すでに成就しているのです。
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初参り・初詣は ご縁のあるお寺で いたしましょう

二〇〇九年 年期(忌)表
一 周 期    二〇〇八年命終
三 回 期    二〇〇七年命終
七 回 期    二〇〇三年命終
十三回期    一九九七年命終
十七回期    一九九三年命終
(廿三回期)    一九八七年命終
廿五回期    一九八五年命終
(廿七回期)    一九八三年命終
卅三回期    一九七七年命終
五十回期    一九六〇年命終
百 回 期    一九一〇年命終
《法 要 に つ い て》 
法要は年期というものに基づいて行われています。しかし仏教に基づくものではなく慣習からくるものです。ですから年期になったから絶対に勤めなければいけないということはありません。基本的に法要とは法の要を聞くという行事なのですから、いつしなければいけないということではなく、法要を催したくなった時に催せばよいものです。

御文をいただく 其の六 五帳目第一通⑥ す く い
 私たちは救われたいという思いが湧くことがありますが、しかしその救いの内容をどれだけ実体化できているのだろうか、と考えることが私にはあります。世界には数え切れないぐらい沢山の宗教があります。そしてその宗教の数だけ救いの内容があることでしょう。逆から言えば救いの数だけ宗教があるといえることでしょう。
 私は救いという言葉は幸せという言葉と近いと思っています。ですから幸せの内容も宗教の数だけあるといえることでしょう。宗教という言葉にこだわらなくても、人間の数だけ幸せがあることでしょう。その人が生まれたところの価値観、そしてその人が生きる中での経験によって救いの内容は変ってきます。私という人生の中でも、幸せの内容が変化し続けていることでしょう。ですから自分が幸せと思っていることも人によっては幸せと感じないことも、正反対に不幸と感じることもあるのではないでしょうか。その中から「小さな親切大きなお世話」という言葉も生まれてきたのではないでしょうか。
 私たちが私の思いの中で勝手に画く幸せをそれぞれで求めていくと、一つになるということはないでしょうし、人を抑圧したりされたり、争いごとばかりが起こることでしょう。浄土真宗の救いは自分の要求を満足していくという方向ではなく、「自分は何故救いを求めているのか」という救われたいという心のもとを明らかにしていく道なのです。言い換えれば救いを求める心のもとにあるものが明らかになることが浄土真宗の救いであり、このことがこの上ない私たちの幸せなのです。
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弥陀如来
 弥陀如来とは言うまでもないことなのでしょうが、阿弥陀仏、阿弥陀如来のことを言います。
 阿弥陀如来は阿弥陀如来の救いにあずかりたいと思ったものすべてをすくい取るというお約束をされているお方です。いわばだれもをすくい取るお方なのです。
 しかし現代社会においては誰もをすくい取る阿弥陀如来の救いはあまり人気がないようであります。どちらかといえば、特別な人だけ、選ばれた人だけ、つまり限られた人が救われすという救いに人気があるようです。
 その原因のひとつには私たちの中流意識があるようです。私たちの住む日本は経済的に恵まれた国です。祭の日にぐらいしか出なかったご馳走が今や毎日のように食卓にのるようになり、毎日沢山の食材が廃棄されているのですから経済的に豊かな国なのでしょう。そういう環境に育っている私たちは高級品を好むようになり、「誰も」という言葉が響かなくなってしまったのでしょう。
 しかし、いのちを源とする食材を何の迷いもなく廃棄する私たち、地球上では食べようにも食べるものがないという生活をされている方が多くいる中で私たちは平気で食べ物を粗末にしています。そのような私たちは本当に救われて当然となる存在なのでしょうか。
 我が身の生き方を振り返らなければなりません。
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罪業は深重
 お念仏をとなえたは利益は?と聞かれると何となく困ってしまう。お念仏を称えたらとうなるのか!といういうことを意味する問いなのだけど。
 お念仏を称えることによって自分が徳をすることは何かと聞かれれば、何もないとか絶えざるを得ない。またお念仏を称えるとどういう人間になれるのかという問いも、変らないといわざるを得ない。「自分」という範疇の中で自分の思うとく、そういうものはお念仏を称えると何ももらえない。だからといって本当に何もないのかといえばそうではない。お念仏が親鸞聖人の時代から数えると七五〇年から八〇〇年続く。その中私たちの先祖はお念仏を喜んでこられたし、大切なものとしていただいてこられた。喜んでこられたということはお念仏を称えて何もなかったわけでは決してない。徳をしなかったわけでは決してない。
 キーワードは「我」。最近の若い人の言葉で言えばジコチュウ、自己中心的といういう言葉であろうか。自分を中心にして、自分の抱え込んでいる価値判断の中で考えれば念仏を称えた得は何もない、のだ。自分、我という枠を外すと、御利益が見えてくる、そういうことなのだ。言い換えれば自分という価値判断の中で考えればお念仏を称える御利益は自分にとって徳をするもの、気持ちよいものではない、ということである。
 お念仏を称えるといただける得は何なのかということを端的に言えば、「罪業は深重」という我を知らせてくださるということである。ジコチュウ的思考回路で考えれば、そんな自分を知りたくもないし、認めたくもない。でも、私たちの先祖、お念仏を称えてこられた先輩方はそのことを尊ばれてきたのだ。そういう御利益のお念仏を大切にしてこられたのだ。
 「罪悪深重」の我と気づいていかれ、そういうものを救うお仕事をなさるのが阿弥陀さまであるといただかれてこられたわけである。
お念仏を信じることが出来なくとも、お念仏を称えても喜びの心が湧いてこなくとも、せめて訪ねていこうではありませんか。お念仏の歴史を。罪悪深重の我と気づかせていただいたことを喜んでこられた人の気持ちを。罪悪深重の我ということに気づいていくことがどれだけ大切なことなのか、そういうことを訪ねていこうではありませんか。
 そのことがいずれ必ずわれがお念仏を相続することにつながることになるのです。
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一心一向

 私たちの宗派のことを「一向宗」といっていた時期があります。それは私たちが阿弥陀仏に一心一向に頼んでいたすがたから表現された名称なのでしょう。良 く考えれば当たり前のことなのかも知れませんが、他の神仏に頼むことなく、ただひたすらに阿弥陀仏に救済を頼むのが私たちの特徴であるといえるのでしょ う。
 一向に頼むすがたが宗派の名前になるということは日本においてただ一仏に頼む教えが少なかったということでもあります。だから特徴となり、名前にまでなったことなのでしょう。
 私の信仰を見つめるとき、ただ念仏する、一心に頼むということが掛けていると反省します。いろんなことが気になり、まだ他の道が自分にはあるのではない か、自分にもっとふさわしい道があるのではないだろうか、ふと思ってしまいます。ドモまでも阿弥陀仏を信じ切れず、疑いの心を払拭でき図にいる私が明ら かにさせられます。一心に阿弥陀を頼む相に頭の我がル思いがします。
 日本において信仰というものは「自由」であったとはいいがたいものがあります。一般民衆において神仏を自らが選び信仰するということはほとんど無かった 時代であったと私は理解しています。地区の体制者にとって都合の良い神を信仰させられていたのが親鸞聖人が生きておられた時代ではなかったかと思います。 仏教でさえも、国家を守るものとして公に日本に持ち込まれ、民衆に信仰させていたのでした。当時民衆は押しつけられた神仏に選び取られるように一生懸命好 かれるようにということに気を遣い神仏にびくついていた時代だったのです。
 誤解を恐れずにあえていうならば、神仏に選ばれる時代に親鸞聖人は自分に必要な佛を自分が選び取っていかれた方だったのです。付け加えなければいけない のは自分に都合の良い佛を選ばれたのではなく、生きとし生けるものが必要としなければいけない佛を選び取って行かれたのです。
 押しつけられた神仏ではなく、自分が選んだ阿弥陀仏だからこそ、私たちの先輩方はふたごころ泣く一心に阿弥陀仏を頼むことが出来たことなのではないでしょうか。
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6月29日~30日まで当寺祠堂経会を催したところ、お忙しい中また天候の悪い中、たくさんの方々にお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。また、お運びいただきました御懇志金はは大切に常入寺の維持管理のため、そして仏法興隆のために使わせていただきます。
今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。

 
御文をいただく 其の二 五帳目第一通②
在家止住
 浄土真宗の特色を言い表す言葉として在家仏教という言葉があります。仏教は伝統的に一度出家をして厳しい修行を積みお釈迦さまと同じさとりを開こうと志すことが一般的でした。家を出る、自分の関係、家族友人、社会での様々な関係を捨てることが求められたわけです。ところが親鸞聖人が私たちに残してくだされた浄土真宗の教えは、出家しなくてたすかっていく仏教の教え、在家のまま、いろいろな関係を保ちながら救われていく教えといっても良いと思います。
 出家してお釈迦さまと同じ悟りをひらく仏教から、在家のままで仏の教えに従い救われていく仏教への転換とも言えると思います。お釈迦様と同じ悟りをひらくということは本当に魅力的なことであります。しかし悟りをひらくには素質ということも必要でしょうし、また出家できる環境、関係を捨てる勇気も必要なことでしょう。なかなか素質や環境に恵まれた人は少ないことでしょう。また今は末法といって悟りを導いてくだされる仏様も存在しない時代なのです。悲しいことなのですが。
 しかし、悟りをひらき佛にならなくとも、み佛のみ教えに従い生きていく道も救いの道の一つです。そのことを私たちの宗祖親鸞聖人が南無阿弥陀仏という念仏を称える歴史の中に発見されていったのです。そのことは限られた人だけが救われていく道から智慧才覚環境を問わず多くの人々が救われていく道への変わりめを意味するのです。在家の仏教は救いの質が落ちたのではなく、救いの裾野が広がったことを意味するのです。
 私たちは一度、我が身を振り返り、私には限られた人だけが救われていく道を歩むのか、あらゆる存在が救われていく道を歩むのか選ばなければ行けないことではないでしょうか。一度ゆっくり考えてみなければ行けないことです。質の高い救いとは、どんな事なのでしょうか。

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