お内仏のお世話の最近のブログ記事

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人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。

 これはお東のお坊さんがお説教の前に唱える三帰依文の最初の部分である。
 人としてこの世の生を受けることは能く能く考える取ると愛づらしいことである。でもわたしは今人として生きている。そして人として生きることのめでたさを教えてくれる仏教に出会うということもなかなか出会いやすいものであるとは言い難い。でもわたしの目の前に仏教の歴史がやってきている。このように私たちに教えくださっている言葉である。この言葉を聞くと「なるほど」と理解できるのである。しかし、そのことに頷いて生活している人がどれだけいるだろか。わたしも悲しいことだけれども頷けずに生きている一人である。
 お経というのはお釈迦様がお説きになられた教えが収められている本をいいます。今から約二五〇〇年前インドで私たちのために教えをお説きになられました。それを未来の人々に伝え残すために教えを聞いた人たちが集い文字に書きとどめました。それがお経の始まりです。いうまでもなくはじめは昔のインドの言葉で書きとどめられましたが、中国の人々が昔のインドの言葉で書き表してある教典を中国に持ち運び、自分たちの言葉に、書き改めるという事業を何度もしました。それが日本に伝わり、そして今私たちの目の前に届いているのです。
 今私たちが目にする多くのお経は漢文で書かれています。またそれをそのまま読誦することが多いですので、お経を見ても、聞いてもなかなか言葉の意味を簡単に理解することは難しいのが現状です。しかし私達の所に経典として伝わっていることは事実です。教典として伝わってきているということは教典という本が伝わっているという意味ではありません。お釈迦さまが、仏であるお釈迦さまが私たちの止めにお説きになられた尊い教えがわたしに伝わっているということです。少なくても、お釈迦さまを仏様として敬い、そしてお釈迦様がお説きになられた言葉を尊い教えとしていただかれた方々が次の世代の人に、わたしに教えとしていただいてほしいという願いの中で、その願いの連続の中でわたしのところに教典が現れているのです。
 私たちにとっては教典というのは単なる古典文学的な本でしかあり得ないのかもしれませんが、私たちの抱えている経験や使僧、その他のわたしが大事に抱え込んでいるものを打ち破って下されるものとしてであい直していかなくてはならないのではないでしょうか。
 善導大師様のお言葉に「経教はこれ鏡にたとうるなり」という言葉があります。このお言葉のように、教典に収められている教えにであうということは鏡のようにわたしの姿を映し出してくださる唯一のものとしてであうということなのです。
 私たちにはお経というありのままの我が身を映し出して下される鏡は先祖より手渡されています。あとは私たちがその鏡を鏡として使うか使わないかという選びだけなのです。
 

146.jpg お内仏のお世話⑪

仏様の前で座る

お仏壇の中で一番主役となるものはいうまでもなくご本尊である。お内仏をお飾りするにあたってなくてはならないモノはご本尊もそうだけど、お内仏の前で手を合わせる私たちだろう。
ご本尊がどれだけ尊いものであっても、どれだけ貴重な宝物であっても、そのことが尊い、宝物だって頷いている人がいないと尊い、宝物であるという意味を持たない。また次には伝わっていかない。仏様の絵像様がどれだけ掛けられていてもその絵像様を見てご本尊と戴く人がいないとご本尊ではない、仏様ではない。単なる掛け軸でしかない。その時点ではお仏壇も調度品、金箔を使った立派な家具でしかないのである。お仏壇がお仏壇であるためには、そしてご本尊がご本尊であるためには、仏様を仏様といただき、仏様の像が飾ってある物を仏壇といただける人がいて初めて仏様が仏様になり、仏壇になるのだろう。
仏様の前にただ座ればいいというものでもない。それはいうまでもなく仏様の前に座っているっていう自覚が必要だ。仏をイメージし仏様に念じる。そのためには説けとという存在は私にとってどんな存在なのかということをはっきりさせなければいけない。そのためには南無阿弥陀仏と念仏申されてきた先輩方に尋ねるしかないことだろう。そういう確かめのもと仏様の前に座るときいつの間にか手が合わされていることだろう。
以前お年を召したお方からおもしろいしつけについてお話を聞かせていただいたことがあります。それは、昔は今と違って朝御飯はどれだけおなかがすいてもすぐに朝ご飯を食べさせてもらえなかったそうです。阿弥陀如来様の前で手を合わせてこないとご飯を食べることが許されなかったそうです。またみんなで『正信偈』のお勤めが終わり、お文の「あなかしこあなかしこ」という言葉が終わらないと朝御飯は始まらなかったそうです。でもそういう厳しいしつけがあったからこそ今毎朝お仏壇の前に座らせていただけています。そういうお話を聞かせていただいたことがあります。今そういうご家庭はほとんどありませんでしょうし、そういうことをしなければならないっていうことは私は思いません。しかしその厳しいしつけの中において念仏申すひとに育ってほしいという願いが込められていたことは間違えのないことです。その願いを家族に伝えるっていうことは形は違っても私たちにはできるのではないでしょうか。
またそういうつよい願いがあって今わたしたちは念仏申す生活ができていることでしょう。
わたしたちは念仏申す人に出会い、仏というはたらきについて今からでも聞かなければいけないのではないでしょうか。仏をイメージして手を合わせるという行いを心がけていくことが今、大切なのではないでしょうか。

ごぼはんだより143 お内仏のお世話? お 華 束
法要や報恩講の時はいつものお飾りに加えお華束をもります。漢字から訪ねると、花束とありますから花を重ねたものを飾るということなのでしょうが、餅や干菓子をお飾りすることが普通です。お寺や大きなお仏壇ではその餅や干菓子が花を重ねたように見えることはありますが、普通のお仏壇でお持ちなどをお飾りしても花を束ねたようには見えないのも実際です。

また最近「お華束」という言葉が一人歩きしているような感じがしてなりません。本来法要などでお華束としてお飾りしたお持ちなどのお下がりを参詣者の方々にお裾分けしていました。しかしお飾りした餅を配るのではなく、法要にお参りいただいた方々におみやげとして餅を配らなくてはならなく、その餅の名前をお華束というのだと思っておられる方々が最近多いように見受けられます。仏様にお飾りされることなくお参りなさった方々にお華束としてお配りされている現状に時代を感じるというか、本義が失われている現状を感じ取るのです。

お華束は御仏飯と同様仏教の真理をあらわす、白蓮華に見立ててお餅をお飾りすることです。そしてこれも御仏飯と同様お飾りしたものをいただくこと、食することまでが大事なお飾りなのです。

餅は日本では大切な行事のときにいただく物という意識が強いものです。白米よりも大切な主食という意識が日本に住んでこられた人々の生活の意識の中にあったようです。今はそうではないかも知れませんが、特別な食べ物という意識が強かったそうです。

そういう思いのあるお餅を白い蓮の花の花びらとしてお飾りし食するということは、仏教がお餅のように掛け替えのない尊いものとして私の元に現れていることを喜び、みほとけのみ教えに生きていくことを意味しているのではないでしょうか。

法要などに参列し、お餅をおみやげとしてちょうだいし、それをいつのまにかかびさせ、捨ててしまうことであるのならば、本当に大切な先祖の願いを踏みにじってしまうことと言えるのではないでしょうか。その事を自分にも問いつづけていかなければいけないと感じています。

モッタイナイ 勿体ない

仏法が御前にあっても喜べぬ私   モッタイナイ勿体ない

勿体ないことに気づけない自分 モッタイナイ勿体ない


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お内仏様には毎朝、朝のお勤めを終えたあと御仏飯をお供えし、お昼頃にお下げすることが習わしになっています。そして於東ではご飯を仏飯器に蓮をもしてもられています。お西ではつぼみの形になるようおしゃもじなどで形取り、お東は実の形になるよう盛槽という道具を使いもります。
仏さんのご飯ということは間違えのないことなのでしょうけど、お荘厳という意味も大事にしていかなければならないことでしょう。つまり仏様をお飾りするために御仏飯をお供えするという意味も大切な意義としていただいていかなければならないということです。白い白米をお飾りするということより、白い蓮の花を白米を使い形取りお飾りする。仏様のお徳を白い蓮の花として讃えることが御仏飯をお飾りする意味が大事だと考えています。
言い伝えによると、真っ白の蓮の花は毎年花を咲かせず、数十年に一度、何百年に一度しか花をつけないそうです。そのめったに見ることのできない真っ白の蓮の花は、汚くどろどろとした沼に一転して真っ白に耀き咲いているそうです。阿弥陀なるはたらきはよくよく考えればあえるはずのないものに珍しくあうことができ、またそのはたらきによって汚れきった我が身に、自分にふさわしくないと思えるぐらいの真っ白の花が咲いたような喜びを私と仏法のであいを表現されてきているのではないでしょうか。
またその白蓮華を私たち日本に住むものにとっては主食であるご飯で表現されている事も大切なメッセージが込められていることなのかも知れません。御仏飯は仏さんにお飾りして終わるというものではありません。御仏飯はずっとお飾りしておくものではなく、お昼にはお下げすることになっています。一日中お飾りしておくと特に夏などでは、臭くなりお下げしたあと食べようと思っても食べることができなくなります。ある意味食べるためにお昼にお下げするのではないでしょうか。お飾りして終わりなのではなく、仏教の象徴である白蓮華に形取った白米をいただく、私たちの主食として仏教をいただき、私たちの血と肉とする。そういうものが仏教であるという願いによってお飾りされてきたことではないのでしょうか。仏さんにあげるものが御仏飯ではなく、仏さんからいただいたものであり、それを大事にしまっておくべきものでもなく、自分の大事な食としていただいていくものなのではないでしょうか。


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ご本尊(お内仏)にお参りするときには線香などを燃してお参りします。お線香にもいろいろな香りがあります。時にはむせるような香りがすることもあります。これは正直お参りをしていてよいきもちがするものではありません。
お参りをするときにお香を燃すのは、我が身を清める、そして浄土の世界を香りとして表現するという意味があります。私は浄土の世界を香りで表現するという事を大事にしていきたいと思っています。
浄土の香りについて阿弥陀経には微妙香潔と記されています。浄土の香りは潔く、ほのかな香りだとお釈迦様は説かれています。潔い香りというイメージは私にはなかなかわいてきません。辞書(大辞林)によりますと、いさぎよいとは(1)卑怯な点や未練がましいところがなく立派である。悪びれない。(2)汚れがない。清浄だ。という意味があるそうです。私にはそういう臭いをかいたことが経験としてないので正直なかなかイメージがわいてきませんが...。
そしてそのいさぎよい香りは微妙だそうです。俺が俺がと自己主張する香りではなく、臭覚をとぎすましたときにやっと見つけることができる香りだそうです。他の香りがわからなくなるようなきついにおいでもなく、香りが混じり合っても不愉快になることがない、そういう香りが、上から流れてくる香りだということではないでしょうか。
私達にんげんの生き方とは全く違う香りなのでしょう。そして私達の生き方の不浄さを知らしめてくださるはたらきも浄土の香りには具わっているのではないでしょうか。






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 ご本尊にお参りをするときには輪灯などの明かりをつけます。また、ご命日の日などのお勤めをするときには蝋燭も灯します。これはご本尊が見やすくするためです。以前までは油皿に油をはり、灯芯に火をつけていましたが、今ほとんどのお宅では電球に取って代わっています。また蝋燭も火事を恐れられ電球にされるお宅もありますし、ほとんどが和蝋燭ではなく洋蝋燭になっています。私は灯芯に点火して灯すのも、和蝋燭をとぼすのも個人的には好きです。その光を見つめていると味わい深いものです。
 蝋燭や輪灯の灯は本尊を照らすためのものなのですが、でももうひとつ照らしているものがあります。それは本尊の反対が側のものです。といっても自分が振り向いてこれかなって思うものではたぶん違うでしょう。灯は反射板がない限り全方向を照らしています。本尊を照らすと同時に私をも照らしているはずなのです。しかしこのままでは照らされている自分は見ることはできません。鏡のようなものがあって初めて私を照らしていることがわかります。
 ご本尊なる阿弥陀如来も私たちを照らし続けてくださっています。蝋燭などの灯と同じように照らしていただいている自覚は全くありません。ご本尊に向かうと眩しいと感じることはできるかも知れませんが。ご本尊の光も鏡のようなものがあって初めて照らしてくださっている自覚ができるのです。ご本尊が照らしてくださっていることを知らしむる鏡について善導大師は、「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」とおっしゃっておられます。お釈迦さまのお説教がおさめてある「御経」というものが私たちにとって鏡のようなはたらきをしてくださる、この鏡によって初めてご本尊の光によって照らされている自分が見えるということなのでしょう。またお釈迦様のお説教だけが鏡のはたらきをするのではなく、お釈迦様のお説教を、お説教として、尊い教えをしていただかれてきた方々、歴史も私にとって避けようのない事実を映し出してくださっているのではないでしょうか。
 蝋燭や輪灯はご本尊を映し出すための道具なのですが、それだけではなく、ご本尊が我が身を照らしてくださっている事を指し示しているのではないでしょうか。ご本尊を飾るということはご本尊のお徳を讃えるということでもあるのです。


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お荘厳の伝統の中にもいろいろと私達の先輩方はいろいろな願いを込めて作り上げてこられています。 以前先輩より「なぜ仏花(仏様にお供えする花)に菊をよく使うかわかるか」と訪ねられたことがあります。私はわからずそのわけを聞くと、仏様と私たちの関係で一番大事なのが聞くということなので、そのことを忘れないないために、そして仏様の前に座る度に思い出すために私たちの先輩方は菊をお供えされてきたんですよ、と教えてくださった。聞くと菊の言葉遊びのように感じその時は私はその事を半信半疑で聞いていた。しかしそのことをなぜか最近よく思い出すのです。なぜか頷いてしまうのです。
 私達と仏様をつながり続けるには私達に聞くという姿勢が大切です。しかし、人生の参考として聞くというのではダメなようであります。仏様を仏様としていただくこと、お釈迦様の言葉を「教え」としていただくそういう姿勢が大切なのです。それは仏様を絶対的に信頼するということであります。お釈迦さまが私達に「お念仏をして幸せになりなさい」という勧めをいただき、何の疑いもなく実践していくということです。
 しかしどうでしょう。私達はどこまでお釈迦さまを信頼しお念仏を称えさせていただいているでしょうか。どこまでお念仏を信じ称えているでしょうか。お念仏を称えれば称えるほどほど私が仏様を疑っている心が見えてくるのではないでしょうか。恥ずかしいことであります。しかしこのことは南無阿弥陀仏という言葉となった仏様が私に知らさせてくださっているのです。言うなれば仏様の御利益として疑う私を知らさせていただいているのです。またこういうおまえだからこそお念仏しかないと教えてくださっています。
 仏教を聞くという横柄な姿勢ではなく、私の生き方を仏教に聞くという絶対信頼、聞くしかない私の有様を先祖は私達に仏花として菊を飾り指し示してくださっていたのです。


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 仏様にはお供えをします。お供えを言い換えればお荘厳ともいいます。簡単に言えばお飾りです。お供えをすることとお飾りをすることは同じ意味だと受け取ってもらって結構だと思います。平生のお供えとしてお花、香り、灯火、の三つをいたします。そしてそれをお供えするための道具を三具足といいます。三具足は仏様をお飾りする最低限必要な道具、仏具であります。
 大谷派(お東)では、ろうそくを立てるための燭台は伝統的に鶴と亀を形取ったものが用いられています。そして香炉は線香を焚くための土香炉と、焼香、すなわち香木を燃やして香りだだすときに使う金香炉の二種類を用います。鶴亀の燭台一つ、香炉二種類、お花を飾る花瓶、合計四つの仏具を平生用います。
 本願寺派(お西)の場合は大谷派のように鶴亀の燭台を用いることはあまりありませんが、それ以外は基本的に同じです。ただ仏壇が大きい場合は五具足といって、燭台と花瓶をそれぞれ一対にしてお飾りする場合もあります。
 仏様をお飾りするときに一番大事なことは、どれだけ正しい形にするか、ということではないと私は思っています。私がお飾りをするとき一番大切にしているのは、どれだけ仏さんにふさわしいか、似合うかということです。
 私たちも服を着たりして自分を飾ることがありますが、別人になるように飾る場合と、自分の個性を引き立てるような飾り方があるのではないでしょうか。お化粧の場合でも別人のようにきれいになる場合と、その人らしさが際立ってきれいに見える場合があるんではないでしょうか。皆さんはどちらが好きでしょうか。私は…。
 食事をごちそうになったときどれだけ豪華な御馳走を頂くことよりも自分が好きなもの、くちにあうものを御馳走してもらうことが嬉しいように、仏さんのお飾りやお供えは私たちが出来る範囲で似合う、そしてふさわしいものをするべきであると私は思っています。
 仏様にふさわしいかどうかということがわかるためには仏さんと出遇い仏さんをよく知らなければいけません。私たちの勝手な思いで、自分よがりでお飾りやお供えをしていてふさわしくないということもあるのではないでしょうか。
 仏様の教えを聞き続け、お仏様の尊い願いに出遇う、この道を歩み続けることでしか本当に仏様に出遇うということはあり得ないことでしょう。また、先輩方のお荘厳の仕方を引き継ぎながら、私はこうやったら良いというお飾りをして、先輩かたがたに批評をしてもらう。また逆に自分の思いを形に表しながら、先輩方のお飾りを参考にして先輩達の心に出遇う。仏教が伝わってきた歴史と自分が出遇うということの中でしかホンモノにはであえないことでしょう。


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 仏壇の正面には御本尊をおかけするところ以外にもスペースがあいている場合があります。そのところにに脇掛けを安置する場合がございます。脇掛けとして向かって右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号、左に「南無不可思議光如来」の九字名号を飾ります。あるいは右に親鸞聖人、左に蓮如上人のご影像を掛けることもあります。ちなみに脇掛けが十字名号・九字名号の場合、その前に仏飯器はそなえません。
 「南無」も「帰命」も同じ意味です。昔のインドの言葉である「ナマス」の発音を漢字にあらわしたのが南無であり、意味に基づいて漢字にしたのが帰命です。「尽十方無碍」も「不可思議」も阿弥陀仏の特を表現した言葉です。そして「光如来」は仏を意味します。ですから何れも南無阿弥陀仏を言い換えた言葉なのです。
 帰命尽十方無碍光如来は天親菩薩のお言葉であり、南無不可思議光如来は曇鸞大師のお言葉です。それぞれのお方が南无阿弥陀仏と出会い、そのかなで自分なりの言葉で表現し直された言葉、自分のこれからの生き方を表明する言葉として「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」というそれぞれの名号が存在するといえるのではないでしょうか。
 その九字名号十字名号をご本尊の脇にお飾りするということは、私たちも私たちなりに南无阿弥陀仏─阿弥陀仏に頭のさがるる生活─を表現しようということなのではないでしょうか。表現するということは言葉で表現するということもありますが、生き様として、生きる中で言葉にならなくても、こだわりとして表現していくということであるのです。
 脇掛けの名号にはいずれも「光如来」と書かれています。これは仏さまを光のようだと頂かれているからです。太陽の光のように私たちを照らして下されているのが仏さまなのです。太陽は光と熱を私たちに歩込んでくれていますが、佛は我が身のありのままの姿を映し出していてくれるのです。仏をかんじ我身に向けられている光のような大いなる願いを感じるとき、胸の張ることのできない我身が知らされてきます。その我身は我身を明らかにして下された光の如来様によってでしかたすからないことがまた明らかになってきます。だからこそ如来様に頭が下がるのです。
 そういう生き方をされてこられていたのが私たちの先祖なのです。



表示119.jpg 私たちは、私たちの先祖は阿弥陀如来を、南无阿弥陀仏を御本尊としていただいてこられました。御本尊とは本当に尊いことという意味です。私にとって一番大事にしていくべきこととして南无阿弥陀仏という言葉を選んでこられたのが私たちの先祖でありましょう。ではそういう私たちは何を本当に尊いこととして選んでいるのでしょうか。
 私たちにとって大事なものは人それぞれかもしれません。「家族」「お金」「名誉」「信頼」「先祖の偉業」いろいろ大事なものはあるかもしれません。しかし、考えるといろいろ浮かんでくるかもしれませんが、実際の生活の中で自分が本当に尊く思えるもの、本当に頭の下がることはあるでしょうか。私はあるとはいえません。
 そしてもう一つ、私たちの先輩方は本当に尊いものではなく、尊いことが南无阿弥陀仏だといわれています。尊く感じるのは物や者ではなく、事柄だったんでしょう。南无阿弥陀仏は存在ではなく事柄として私たちの先輩方は受け取っておられているのです。はたらきとして南无阿弥陀仏を頂いてこられたということなのでしょう。
 阿弥陀佛、阿弥陀如来というように佛のことを如来という言い方もします。仏とは如なるものから来たることをいうのです。如、すなわち真実のはたらきを仏というのです。神様と同じように佛なる存在がいるというわけではなく、真実のはたらきを佛と表現し、そのはたらきを尊んできたのが仏教の歴史なのです。
 本山から頂いた阿弥陀仏の絵像の裏を一度ごらんになってください。そこには「方便法身尊形」と書かれています。また、嘘も方便ということわざのもとになっものに「有相も方便」という言葉もあります。方便というのは手だてという意味です。本当はそうではないけれどもあえてそうした、ということです。本当は仏とは真実のはたらきという、形にあらわすことのできないものなのだけれども、あえて人の姿をして表現したものが、本山から頂いた本尊なのです。
 真実のはたらきが私の上にやってきてどうなるのでしょうか。それは我が身の事実が明らかになるのです。その事実はたいがい自分が気づいていなかったものであったり、認めたくないものなのです。自分にとっては都合の悪いことが真実によって我が身の事実として明らかにさせていただけるのです。
 ことわざに「人の振り見て我が振り直せ」というものがありますが、我が身の事実というものはなかなか自分ではわからないものなのかもしれません。やはり人との関わりによって人との出会いによって感じるものなのかもしれません。だから南无阿弥陀仏が人の姿として表現されてきているのかもしれません。
 「人の振り見て我が事実に気づけ」これが先輩達からの今を生きる私達へのメッセージなのかもしれません。(つづく)

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