ごぼはんだよりの最近のブログ記事

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はなまつり
釈尊降誕会
4月3日(土) 後1時30分より
常入寺にて
主催 老田各宗団
お釈迦さまがこの世に存在され、教えを説きそして仏法を指し示しくだされたことを喜ぶ法要

子ども達よ つどえ!
釈迦さまの誕生会をしましょう
参りくださった子どもさんたちにはおみやげを用意してあります。

釈尊誕生
 4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日だと伝えられています。今から約2500年前のことです。そのことを縁として各地で「花まつり」が催されます。
 言い伝えによればお釈迦様はお生まれになられた時、すぐさま七歩歩かれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったそうです。しかし、現代社会の中に生まれ生きている私たちはこういう話を聞くと「生まれてすぐさま歩けるはずはない」「生まれてすぐさましゃべれるはずもない」というように疑ってしまいます。
 この言い伝えが本当であるとかないとかと言うことを私たちは論議したりしてしまうのですが、疑う中でも、少なくとも、そのことがなぜ伝えられてきたのかという背景、願いというものはしっかり聞いていかなければいけないことでしょう。七歩歩かれたと言うことには六の次が七であると言うことがあるのだと思われます。六、すなわち六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を超えるために仏教の教えがあるのだ、ということが私の耳には聞こえてきます。私たちがあこがれる、天上界、そこに住む神様の生き方までも迷いと押さえ、その迷いの世界を巡ることを超えることが釈尊が説かれた仏教なのです。迷いの世界に執着し、その中であくせくしている私自身の生き方の悲しさに気づきもしないで生きているのが私たちなのです。そういう私たちを何とかしようと願われてるのがお釈迦様です。私たちがお釈迦様と同じ悟りを開く必要はありません。その教えに生きていけばよいことなのです。
 我が身の生き様を仏教を聞くことによって明らかにされてきた先輩方は、そのことに気づけたことを喜び、その教えを説かれていたお釈迦様に心から感謝なさってこられました。そういう意味でも、お釈迦様がこの世に存在されたこと、お生まれになられたことを喜んでこられたことなのでしょう。生まれてくれてありがとう、と。
 あらゆる人たちの誕生日も「生まれてくれてありがとう」と感謝することが大切なのでしょう。「おめでとう」という言葉の意味を尋ねていきましょう。

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祈りから誓いへ
 新年を迎え初詣に出かける人は多いと思う。日本の常識としてあるものなのだろう。そして神仏の前でいろいろな祈りをしてゆく、商売繁盛、家内安全、自分の健康...。神仏にいろいろなお願い事をする。祈りがかなえられる、かなえられないということを抜きにして私たちは思わずお願い事をする。我々の性分なんだろう。だからやめろといってもそんな簡単にやめられるものではないだろう。
 でも、自分の幸を他人任せにすることはどうのようなものだろう。祈りかなわなかったら神仏のせいなのだろうか。初詣のときだけ、そして都合のよいときだけ祈りに来て願い叶えとは虫のよすぎることなのではなかろうか。私はそう思う。
 私は最近神仏にお願い事をするとき、もう一つしなければいけないことがあるような気がする。それは「誓う」事だ。願いそして誓うことが大事な気がしてならない。願うこと誓うことは言い換えれば夢ということだろう。こうしたいという目標、夢。ただ、目標を立て、夢を見ているだけでは目標に近づいてはいけない、夢は叶わない。叶うためにそこに近づいていくにはどうしたらいいのか考え、そして実行すること。それが大事。そうでなかったら描いた餅でしかない。
 神仏の前で祈り、そしてその祈りのために自分はどうするのかということを誓うことそして、生活上でその誓いを実践していくことこそ大事なのではなかろうか。
 
 最近私は世の中の「安穏」なることを願う。願わずにはおれない。ニュースに写されてくる日本の現状、そして地球の有様。目をふさぎたくなる。しかし目をふさいだまま、社会の現状に目を背けたまま神仏に世の中の安穏、平和を願ってもしかたのないこと。自分の願いと現状をしっかり観察して、そのために自分はどうしなければいけないか、何ができるのか考えないといけない。安穏と叫ぶだけでなく、この世の中の安穏をイメージしなければいけない。この世の中にとって平和とはどういう事なのか、本当の平和とはどういう事なのか。自分が出来る平和への歩みは何だろう。歩み、ぶつかり、またイメージして歩んでゆく。この繰り返しが大切なような気がしてならない。私たちに、否、私に今までかけていたことなのではなかろうか。
A happy New Year
Let's hope it's a good one
Without any fear
War is over, if you want it
War is over now 
ハッピー・ニュー・イヤー
いい年であればいいね
何も心配がなければいいね
戦争は終わる、
もしそう望むのなら
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「忌む」と言うことを考える

 「年忌」や「忌中」という言葉で使われている忌という漢字を私たちは余りよい意味として使っていないのが現状ではないでしょうか。嫌うもの、タブー、はばかるもの、避けるもの、というような意味合いで使うことがほとんどなのではないでしょうか。しかし本来はどうもそういう意味であったのではなかったようです。
 辞書を調べてみると忌みという言葉には「忌み避けるべきこと。禁忌。はばかり」という忌みもありますが、もう一つ、「神に対して身を清め穢れを避けて慎む事」というようにかかれています。そしてこちらの方が元々の意味であり、転じていって、嫌う、はばかるものと言うように変化していったようであります。
 身を清めるということや、穢れを避けるということは私たちの教えに基づくとふさわしくない言葉ですが、私なりにそのことを踏まえて訳するならば、身をただして取り組んでいくという意味あいが元もとその言葉の持っている意味であったのでははないでしょうか。
 そういう視点にて年忌と言うことを考えれば嫌ったり、はばかるべき年という意味ではなく、身をただすべき年と言うことになると私は理解しています。有縁の方がいのちを終えて行かれて三年経つ、七年経つ、そういう歳隔たった今、有縁の人々が命終えていくという事実を、身をただし改めて受け止めていく、自分が生きると言うことを考える仏事が、年期法要というものなのではないでしょうか。咨嗟がもたらす、災いなどを避けたり、自分の所に幸を運んでもらうようにするための仏事ではありません。有縁の方々の死という事実をとおして我がいのち、我が人生を問い仏法に聞く行事が法事であると私は理解しています。「忌中」ということも、何かを恐れて慎んでいる期間ではなく、死という事実に目の当たりにしたとき、我が死、我が生を身をただして考えていくときが忌中という期間なのでしょう、ですから、押しつけられるものでもなく、こうしなければならないということもなく、期間も定まってなく、自らの思いに基づいて行なうものなのでしょう。
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御  礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を催したところ、お忙しい中たくさんの方々にお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。お運びいただきました御墾念は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。 
                  常入寺住職 青井和成

11月23日(月)午前10時より午後3時30分まで
午前の部 午前十時より
尼講追悼会 午後二時より
午後の部 引き続き
 ☆法話は住職が行います。
 ☆尼講によって、
   お昼にお斎のもてなしがあります。
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報恩講厳修
 十月三十一日午後二時より 十一月一日午後四時まで
10月31日(土) 午後2時より 午後のおつとめ
午後6時より 親子の集い

11月1日(日) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのお勤め

★長寿者などを対象に自宅からゴボハンへ、ゴボハンから自宅への送迎サービス(無料)を実施いたします。前もって電話をいただければ係のものが迎えにまいります。是非ご利用ください。

お説教は昨年同様  松井 勇さん(南砺市)です。
お斎は11月1日あります。

ご近所の方をお誘いの上是非足をお運びください。
住職・役員 心よりお待ち申し上げております。
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御往生
先月、在所で百歳を超えたお婆ちゃんが亡くなられた。このおばちゃんは私にとって最後の昔からのお婆ちゃんだった。別の言い方からすれば小さい頃からお婆ちゃんだった、もうそういう人は私の周りにいない。大概、今お婆ちゃんをされている方、お婆ちゃんらしい人は昔私からすれば、アネハンやったり、オッカッチャンやった。だけど今は...、そんな人がいまはお婆ちゃんになっておらはる、でもその人は私の中ではお婆ちゃんの姿しか記憶にない。
縁ある人の死を迎えるとその人との出会いが思い出される。後ろでお参りされているときの姿。草またいされている姿。いっしょにお茶を飲んでいるときの姿、お茶といっしょに頂いた漬けもんの味、笑い顔、その他色々...。縁が深ければ深いほど色んな出会いが思い浮かんでくる。
もう自分の中に遺る思い出の中でしかあえない、その人と。そしてその思い出からこれから私をいろんなことを導いて下されることだろう。だから亡くなった方を仏さんといってこられたのだろう。浄土に生まれられるといわれてきたことなのだろう。これから私をお浄土へ導いて下される方だからこそ、浄土往生間違いないことだ。
でも私たちは何気なく長生きされて亡くなっていかれた方を「大往生だった」という言い方を使う。その言葉が少し気になる。そういう言い方をすることが悪いわけではないけど。自分たちが往生を評価していることが気になるのだ。阿弥陀の浄土はひとつしかない。だから大小はない、なのに...。反対に幼くしてこの世の生を終えていかれた方を小往生とでもいうのだろうか。思ったより早くこの世を去っていかれ残された私たちにとっては本当につらい別れだけど。小さい往生なのだろうか。そういう死からこそ世の無常の事実を我に力強くお教えくださる。そういう意味で尊いこと。
往生は大いなること、大いなる往生ということなら理解できる。そういう意味では誰の往生も大往生だ。死に方で往生が変るわけでは決してない。
私たちが気にしなければならないのは亡くなられた方の行き先、評価ではない。先輩方は浄土に行かれたといわれているのだからその言葉を頂いていくしかない。死後のことを考えることは我等の限界を超えていることなのだ。私たちが大事にしていかなければならないのは亡くなった人のことではなく、私が往生されていかれた方から何を聞き取っていくか、何を学んで聞くかということだと思う。我が身の往生のことこそが一大事なのだ。

大谷暢顯御門首による帰敬式が執り行われます
帰  敬  式(おかみそり)
受式者募集中
とき 2010年4月24日(土)午後3時30分より(受付は11時より)
場所 井波別院瑞泉寺(南砺市井波3050)
問い合わせ 真宗大谷派 高岡教務所(高岡市丸の内2-15 ℡0766-22-0464)
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 最近芸能人が覚醒剤所持などの容疑で相次いで逮捕されたということがあってか、テレビなどのマスメディアでは覚醒剤などの特集を繰り返し放送している。それによると覚醒剤を常習すると脳神経を刺激し、その感覚を忘れることが出来ず、覚醒剤を依用したいという意識は死ぬまで取り除けないものなのだということを放送していた。一言で言えば本当に恐ろしい薬と言えることなのだろう。また私には意識はないけれども私たちの本当に身近なところにまで覚醒剤などがやってきているそうだ。ちょっと感覚を澄ませば覚醒剤を手に入れようと思えば簡単に手に入る環境になってしまっているらしい。本当に恐ろしいことだ。
 また、覚醒剤などの使用を防止するためににか、覚醒剤を所持したり使用したりして逮捕されると一般の社会人として生活していけないということも、何度も何度もいっている。また芸能人の逮捕者などは見せしめみたい感じでも扱われている感も否めない。覚醒剤などを使用する犯罪についてもう一つ大事にしていかなければならないのは、覚醒剤をやめたいと思っているけれどもやめることの出来ていない人たちのケアーだと思う。ただ単に犯罪者に仕立てていくだけではいけないような気がしてならない。
 私は覚醒剤を一人でも使用する人を減らすために私たちが理解していかなければならないことは覚醒剤などを始めるときの気持ちではないかと思う。単なる興味だけから始める人はほとんど少ないそうである。端的な言葉で言えばすっきりするために始める人が多いそうだ。「これでいいのだろうか」というような不安からくる心にガスのようなものがかかった状態を何とかするために始めるそうだ。不安を亡くしたいという誰にでも持っている気持ちから覚醒剤を使用しようという気持ちになっていくということになる。そういう意味で言えば誰でも覚醒剤を始める種を持っているということになる。覚醒剤をやっているのは特別、特殊な人たちと見て行くのではなく、自分と同じ心を持つものとしてみていくことが大切なことなのではないだろうか。
 私たちは悶々とした思い、これでいいのだろうかという不安心をなくそう、すっきりさせようとしてしまうものです。しかし念仏を称えられてきた先輩方は、すっきりするために努力されてきたのではなく、悶々としている元を訪ねて行かれています。なくそうとされたのではなく向き合って行かれたのです。その悶々している心をたよりに自らを見つめていかれ、念仏を称えなければならない我が身に気づいて行かれています。
 悶々とした心をなくしすっきりしたいいのならば、コカコーラやサイダーを飲んだり覚醒剤に走るしかないでしょう、しかしどの方法も一時的なものであったり、その場しのぎ的なものでしかありません。どれも特効薬ではなく感覚を麻痺させるに過ぎない道具です。
 もし悶々とした思いと真向かいに向き合いたいのなら、念仏の歴史の流れにはいり身を任せることが一番良いことでしょう。そして悶々とする気持ちの大切さに気づき、心から念仏を称えることが出来ることでしょう。
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 先月七月はよく雨が降った印象が強いですね。ご存じの方も多いと思いますが、寺の横にあるうちの畑も畑というよりは草原になってしまいました、これは今年に限ったことではなく毎年のことかも知れませんが...。雨ばっかり降って雑草の成長が早い、雨が降るから畑に行けず草が刈れない、そういうことの繰り返しで大変なことになってしまってます。雨のせいで畑がこうなってしまったのだと雨だけのせいにしたい思いが強いです。そういうことを言い訳に出来るぐらい本当に雨の日が続いた月が七月ではなかったでしょうか。つい「異常気象」と言いたくなります。
 異常という言葉はつねと異なる、いつもと違うという意味ですけど、でも私が思う常、当たり前というのは本当に常のことなのでしょうか。今年はいつもと違う天気だと私たちは言うわけですけど、私たちが言う「いつも」というのは私たちが経験している間のいつもでしかないのではないでしょうか。私の経験の中だけで私が勝手に判断したいつもでしかないのではないでしょうか、私の人生の中ではいつものことなのかも知れませんが、もっと長い歴史、人間の歴史を≒にしてみれば、また地球の歴史という視点で考えればそれは本当にいつものこと言えることなのでしょうか。私が異常と思っていることが実は長い歴史の眼で見ればいつものことであり得ると言うことがあるかも知れないのです。
 このことは気象現象についてだけに当てはまる話しというわけではないのではないでしょうか。すべてのことに於私が思っている当たり前の事というのは私の経験で想像しているものに過ぎないのかも知れません。そして自分の想像にしか過ぎないことにも気づかず、人に押しつけたりいろんなことを自分の抱え込んでしまっている私の常識で善し悪しと判断していることが多いのではないでしょうか。
私が判断している善し悪しと言うこともその奇人が私の少ない経験の中から師は判断していない、私の善し悪しの編んだんも結構あやふやなことと言えるのかも知れません。
 私が抱え込んでいる当たり前をホンモノの当たり前にしていこうとするときは、私のあやふやさに頷き続けていくことが何よりも大切なことだと私は思います。そして自分と立場の違う人と相手を認め合いながら対話して他の人が抱え込んでいる常識に出会っていくことからしか始まらないのではないでしょうか。
 善導大師というお方は「経教はこれ鏡にあとうるなり」と教えてくださり、お経に書かれているお釈迦さまの教えを聞くことによって私の無明なるすがた、自分の愚かさに気づいてゆきなさいとお教えくださってます。自分の抱え込んでいる常識は間に合わない、自分にとって都合の良いものだと言うことを経典を良く事を通して、また私に先立って念仏を称えてくださっている方と出会うことを通して気づいてゆき、真実へ近付く歩みをあきらめず少しずつすすめて行かなければならないことだと思うのです。
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カミングアウト(Coming out)とは、これまで公にしていなかった自らの出生や、病状、あるいは性的指向を表明することをいいます。またカムアウト(Come out)ともいいます。もともとは「(引きこもっている)クローゼットの中から出る(カミング・アウトする)」という意味のアメリカの隠語から来ているそうです。(Wikipediaを参照)
 ただ人が隠したいこと人の心を察せずに無神経に暴露していくということには嫌悪感を感じますが、本人が隠そうとしていることを自ら表明していくことは大切なことなのでは思う今日この頃です。
 今年の春、知人達とバスで旅したとき友人がバスの中でふと話されたことがあります。それは、自分の近所の人が長い間、自分が糖尿病であることを隠し通され、結局こじらせてしまい亡くなっていかれたとおっしゃったんです。他人事でない私はドキッとしました。
 でも私の場合は幸い隠すことなくいるので、それなりにいろんな人が色んな表現で気を遣ってくれます。だから食べ過ぎて血糖値を上げつづけるということなく症状を安定させることが出来ています。もし自分も隠し通していたり、自分が高血糖症であることに気づいていなかったらどうでしょう。法事のあとのお斎の席でも、自分の症状を隠そうとすると無理して食べたり飲んだりしてしまわざるを得ません。そうならば病状を悪化させていくだけなのでしょう。
 しかし自分の症状を知っていてくれたり、そして自分の症状を隠さず表明していくと人が気をつかってくれたり、自分で食べることに当たり前のように気をつけることが出来るのです。とにかく健康な人間のフリをする必要は全くないのです。
 何かのフリをするっていうことは結構つらいことです。それは自分を隠すということですから。嘘をつけばその嘘をついたことを隠すためにどんどん嘘を積み重ねていかないことといっしょで大変疲れることです。気が休まることがありません。そうなると精神衛生上よいこととは決していえないことでしょう。
 隠しておきたいこと自分を偽らなくてはならないことは思い切って表明していくことが私が私として生きるためには大切なことです。
 また、自分の親しき人でも、自分を偽ったり、隠したり、悩んでいることがある可能性があることを心のどこかに刻んでおくことは大切なことではないでしょうか。自分は自分の少ない経験の中でいろんなことを推測したり、無智なるところでいろんなことを考えている私であることに気づきつづけることが、親しき人がその人らしく生きるためには大切なことなのではないでしょうか。
 カミングアウトすることの大切さ、カミングアウトを受け入れる環境を私たちが作り続けることの大切さをつくづく思っているわけです。
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祠堂経会厳修
二〇〇九年六月二十八日午前十時より
二十九日午後四時まで
六月二十八日
    午前の部、並びに祠堂のお勤め
                                午前十時より
    尼講のお勤め            午後二時より
    午後の部                    引き続き
六月二十九日
    午前の部のお勤め    午前十時より
    午後の部のお勤め        午後二時より
※二十八日は尼講による昼食の振る舞いがございます。

それぞれのお勤めのあとに法話があります。(午前の部十二時頃、午後の部四時頃終了予定です)
法話は、両日とも婦中町の寳堂寺住職の篠川 弘一さんにお話しを頂きます。

祠堂経会開催中二日間 皆さんといっしょに聞法いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。お待ちいたしております。

祠堂について
お寺に寄附をすることを祠堂といいます。どうも祠堂銭という言い方を以前はしていたようです。身内が亡くなられたことを縁としてお寺に祠堂されることが多いです。いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄附ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければよろしいです。また金額もお気持ちをお入れください。多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがお寺にとってこの上ない喜びです。
 常入寺では祠堂を頂いた方々に祠堂のお勤めを祠堂経会の初日にまとめてさせていただいています。今年の祠堂経会の時にと思われるのでしたら出来れば祠堂経会が始まる一週間前までに祠堂をしていただければ幸いです。準備の都合等がございますので、祠堂経会の当日祠堂いただいてもお勤めできないこともございます事ご了承ください。

『安楽集』に云わく、真言を採り集めて、往益を助修せしむ。何となれば、
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。(親鸞聖人)
念仏相続
 浄土真宗の寺院が建っている意義は念仏の声が未来永劫まで響き渡ることを願いとしています。その使命を全く果たそうとしていないものは浄土真宗の寺院と言えません。念仏のの声を皆さまにお届けすることがお寺の大事なお仕事であり、住職である私の重大な任務なのでしょう。
 念仏の声を皆さまのお宅にまでお届けする宅配業が浄土真宗のお寺と言っても言い過ぎではないと思います。またこのお寺は念仏の声を聞き、またその念仏の声に応えるようにナムアミダブツと念仏を称えてこられた方々によって相続されてきました。念仏を子や孫の世代の人々に称えてほしいと言う願いのもと相続されてこられたのです。
 そういう願いのもと相続されてきたお寺を住職として管理している私はそういう願いに応え続けたいと思わされます。また力不足の私であることも同時に知らされることです。
 私たちは沢山の念仏の声を聞いて育ってきました。今もなお育ちつづけています。念仏を栄養に成長しつづけています。
 しかし、念仏によって育っている私たちですが、私たちの口からあまり念仏の声が発せられなくなっています。阿弥陀仏の願いよりおこった念仏の声が今わたしの所まで聞こえているのですが、その歴史を途絶えさせようとしてしまっているのが私たちではないでしょうか。
 「今の若いもんは」とつい思ってしまう私たちがですが、そういう若いもんを作ったのは誰なのでしょうか、少なくても私たちの後ろ姿を見て育ったのが彼らです。私たちは彼らに何を伝えたでしょうか、何を相続すべきか伝えたでしょうか。
 その前に私たちは前に生まれた人々から何を受け取っているのでしょうか、何を相続しようとしてきたのでしょうか。今相続したと思っているものは前に生まれた人たちが相続してほしかったものなのでしょうか。
 何を受け継ぎ、何を残したいか、そういうことを念仏を称えながら一人ひとりが考えていかなければならないことなのでしょう。

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