ごぼはんだよりの最近のブログ記事

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仏法に聞く歩み
 お釈迦さまは私たちのためにたくさん教えを説いてくださいました。その尊い教えが「お経」として今私たちの処に届いています。ですからお経というのは死んだ人のためにあるものというよりは生きている私たちのためにあるものであり、私たちが聞き続けていかなければいけないものといえると思います。
 お念仏を称えてこられた先輩方は、「仏法を聞くものではなく、仏法に聞いていくものなのだ」とおっしゃられてきました。どこがどう違うのかなんて思ってしまう言い回しです。「を」と「に」の違いです。違いを考えるだけで頭が痛くなってきそうですけど、大きな違いがあるし、大事な違いがあると考えられてきたことなのでしょう。
 私はこんな違いがあるように思っています。自分の知識を高めるために仏法を聞くことと、自分の人生を仏法に聞いていく。前者は仏法はあくまで今のままの自分に役に立つ道具であり、後者は揺るぎない仏法物差しによってによって自分というものがなにものであるか明らかにしていくもの、そういう違いがあるのではないでしょうか。私は仏教は宝石などで作られたネックレスみたく自分を美しく飾っていくものなのではなく、仏様の教えに出遇うことによって、自分につけられた飾りや鎧を一つひとつ外していく歩みなのではないでしょうか。仏法を聞き続けていかなければならない自分に頷いていく歩みが、仏法に聞いていく歩みであると私はいただいています。そういう生活を私たちの先祖たちはお念仏を称えながらされてこられたわけでしょう。
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 新年を迎えることが出来ました。お正月はあちらこちらで新年の挨拶が聞こえてきます。なんとなくはなやかなきもちになるものですね。しかし、昨年の年末にテレビで「今年大震災を迎えたので、新年の挨拶でおめでとうございます、という言葉に違和感を感じておられるかたがおられる」というようなことをニュースのなかでいっていた。一年以内に家族を亡くしたかたは、お正月をしない、新年の挨拶をしないというのと同じ思いなのだろうと感じるわけです。そう思うのは間違った考え方であると断言することは決してできない。ただ新年の挨拶としてなぜ、明けましておめでとうといってきたのかとを知って考えてみる必要があるともうのです。
 よく考えれば自分も昔、何でお正月になっただけでおめでたいのか!なんて疑問を強く持ってたことがあった。なぜめでたいのかと言うことがわかってなかった。今は私の中で少しそのことは整理できてます。
 お正月は昔みんなの誕生日だったからお正月がめでたかったのでないかと今は考えています。明けましておめでとうは誕生日おめでとうと同じ意味だと私は今考えています。そんなこと今言ってもすっきりする方は少ないかもしれませんが、今は歳の数え方は満年齢で数えます。だから誕生日は生まれた日が誕生日で、歳が増えるのも誕生日です。でもしかし本来日本では歳の数え方は数え年でした。歳が増えるのはみんなお正月に等しく一つ年をとったのです。だから昔はみんなの誕生日はお正月であったと言っても間違えではないと欲うのです。
 お正月になり、一つ年をみんなとり、一年間生かさせていただきました。また一つ歳をとらせていただきました。ありがたいことです。めでたいことです。そういうことだと思うのです。
 自分の中で受けがたい事実があってお正月を迎える気になれないという思いを持つことは大切なことです。でもしかし、おめでとうと言ってはならないと他人に諭すことはいかがなことなのでしょうか。
 自分の中にどんなことがあってもお正月に一つ歳をとらさせていただいたことを喜んだり、一年間生かさせてもらえたことを喜ぶこと結構大切なことなのではないでしょうか。そういう意味で何があってもお正月の挨拶は「明けまして(お互い一つ歳をとらさせてもらい)おめでとうございます」なのではないかと思うわけです。

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東本願寺御正当報恩講のお参りに行ってきました。
 東本願寺では、十一月二十一日より二十八日まで御正当報恩講が執り行われました。本年は親鸞聖人の七百五十回忌にちょうど当たるというので、御正当(ごしょうとう)という言葉が使われています。またお勤めの内容も平年とは違ったようです。新聞などの報道によりますと、7万人近くの方がお参りされたそうです。特に御満座が勤まった二十八日は二万にあったそうです。
 住職も七百五十回の御正当と言う言葉に誘われて、久しぶりに本山の報恩講にお参りさせて頂きました。と言っても、二十四日日帰りのお参りでした。一人ではちょっとはずがしいということもあって、四男坊にお伴してもらいました。朝早く富山を出たときには小雨が降っていたのですが京都に近付くにつれて雨も止んでいき、東本願寺では風は冷たいながら、曇り空、時にはお日様も顔を出してくれました。9時30分過ぎに本山に着いたのですが、10時からのお勤めとあってか、中央には座ることが残念ながら出来ませんでした。全国各地より、参詣席には参拝者が集まり、内陣外陣にも全国各地より僧侶が集い座っておられました。全国各地から報恩講のために集いお聖教が読誦される。何ともいえん響きがありました。このことが毎年毎年続けられているんですね。この体験いろんな人にも味わってほしい、そう思いました。出来ればいつか皆さんで本山の報恩講にお参りできたらいいと感じました。
 当寺の報恩講そして御正忌法要が終わり、また本山の報恩講にお参りしてきて、何かほっとしてます。そのせいか鼻水が垂れてくる今日この頃です。先輩方々より「法事や報恩講を勤めたあとアッカリしてはならんぞ」と何度か教えてくださったことがあります。それは気が抜けて体調を壊す、そういうこともあるのでしょうけど、これは仏事を勤めるというのは終着点ではないということなのでしょう。仏事を勤めるというのは始まりなのだ、そういう思いが込められている言葉なのでしょう、私はそう頂いています。法やご法事を勤めるためにいろんな準備が必要です。段取りしないといけません。ですから当たり前のこととして終わったらほっとするのです。だけどいつまでもほっとしていてはいけないのでしょう。次の報恩講やご法事まで、課題を見つけしっかり歩み出さなければならないのです。仏事は節目、過去を振り返り、課題を見つけ、その課題に向かって歩み出す、通過地点、チェックポイントです。
 さぁ歩み出しましょう!来年の報恩講まで、次のご法事まで、次の親鸞聖人の御遠忌まで!
親鸞聖人の次御遠忌は五十年後の八百回忌です。次のチェックポイントまでたどり着かなくてもいいんです。ちゃんと代わりに歩んでくださる存在が生まれ出てくださいますから、変わってくれる人が誕生するはずですから。心配せず歩み出しましょう。

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御  礼
10月31より11月1日まで当寺報恩講を勤めさせていただいたところ、お忙しい中ご都合をつけてお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。お運びいただきました御墾念は大切に常入寺の維持管理、そして運営のために使わせていただきます。また懇志の一部を東日本大震災の被災地に運ばさせていただきます。今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。                   
常入寺住職 青井和成


御正忌法要
11月27日(日)午前10時より午後3時30分まで
午前の部 午前10時より
尼講追悼会 午後2時より
午後の部 引き続き
 ☆法話は住職が行います。
 ☆尼講によって、
   お昼にお斎のもてなしがあります。

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報恩講厳修
並びに前坊守十七回期法要
十月三十一日午後二時より一月一日午後三時まで
10月31日(月) 午後2時より 午後のおつとめ
午後6時より 親子の集い

11月1日(火) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのお勤め

★長寿者などを対象に自宅からゴボハンへ、ゴボハンから自宅への送迎サービス(無料)を実施いたします。前もって電話をいただければ係のものが迎えにまいります。
是非ご利用ください。

お説教は昨年同様  松井 勇さん(南砺市)です。
お斎は11月1日あります。

ご近所の方をお誘いの上是非足をお運びください。


親子の集い
親子の集いを報恩講開催中、31日の午後6時より行います。
みんなでカレーを作って食べて、そして楽しく遊びたいとたいと計画しています。

御正忌法要
十一月二十七日 午前の部 午前10時より
  尼講追弔会 午後2時より
午後の部 引き続き 終了は午後4時を予定しています。
※ お昼に尼講の御膳付きがあります。
法話は午前の部、午後の部の後に当寺住職がいたします。

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御 礼
6月26日~27日まで当寺祠堂経会を催したところ、お忙しい中、本当にたくさんの方々にお参りをいただき、そして厚いご懇念をお運びいただき、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。初日は用意した椅子が足りないぐらい沢山のお参りを頂いたことであります。
皆さまよりお運びいただきました御懇志金は大切に常入寺の維持管理のため、そして仏法興隆のために使わせていただきます。
今後とも常入寺維持運営にご協力いただきたくお願い申し上げます。         常入寺住職 青井和成


常入寺 やこのつどいnさま~

日 時 8月11日(木)午後5時よりだいたい午後9時まで
場 所 常入寺本堂前 
参加費 500円

毎年のごとく
ながしそうめん・バーべーキュー
その他花火を予定しています。
皆さん友達を誘って参加あれ!

なかなか開催できなくなっていますおやこのつどいです。だけど、夏ぐらいは、ながしそうめんぐらいはしないと思い、うっぷん晴らしのごとく開催します。親子で、子ども達どうしでご参加ください、
またお手伝いいただけるボランティアスタッフも大募集中です。


 <<新企画>>
7月23日より8月31日は子ども月間

子ども達よ!
お寺さんがお参りに来たら
後ろでお参りしなさい!
お寺のものがお参りに来たとき、
中学生以下の子ども達がいっしょにお参りをしたり、うしろで座ることができたら、お参りカードをあげるよ!
9月になったら、お菓子の詰め合わせと交換しま~す!
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祠堂経会厳修
二〇一一年六月二十六日午前十時より十七日午後四時まで
六月二十六日(日)
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前十時より
尼講のお勤め 午後二時より
午後の部 引き続き
六月二十七日(月)
午前の部のお勤め    午前十時より
午後の部のお勤め 午後二時より


※二十六日は尼講による昼食の振る舞いがございます。
それぞれのお勤めのあとに法話があります。(午前の部十二時頃、午後の部四時頃終了予定です)
法話は、両日とも当寺住職がお話しいたします。
皆さんといっしょに聞法いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。
お待ちいたしております。


自分で自分を褒めてやりたい!号200号達成めでとう!
ごぼはんだよりを発行して200号を迎えることになりました。思い起こせば涙涙...、というのは冗談ですが、今から多分20年ほど前、本堂を修復するとき常入寺通信として始めさせてもらい、その時は行事の案内、修復事業のご報告と、年に2~4回の発行だったと記憶しております。それを本山で蓮如上人の五百回御遠忌が勤められたことをご縁に、毎月発行させてもらったはずです。多分。
 蓮如上人は「御文(御文章)」と今私たちが呼んでいるお手紙を二百数十通という沢山書かれたお方です。その中で私たちの宗祖親鸞聖人があきらかにしてくださった専修念仏の教えを私たちにわかり易くお教えくださいました。そういう蓮如上人に見習おうと毎月発行を決意したと記憶しています。当時、月参りをさせてもらってもお勤めだけしてお茶を頂かずさっさと帰るということが当たり前になり、天気の話すらしなかった、できなかった、そういう関係でした。それを何とか打開しようと、話しをするきっかけとして毎月「たより」を書く原動力にしていました。あれから何年経ったでしょうか。住職もいつの間にか四十半ばの歳になってしまってます。あんな若かった住職が...。「ワカハン」言われても何の違和感もなかったのに...、歳が経つのは本当に怖いものです。こんな有様です。時ばかり過ぎ去ってしまっています。しかし、私と皆さんの間にある溝は埋まったのでしょうか。お念仏の教えを皆さんと語り合うことが今できてるでしょうか。振り返ってしまうと胸を張ることのできることは何一つありません。あのときと何ら変わってないような気がしてなりません。
200号を続けて発行させてもらい、言えるのは「継続は力なり」そんなことしか言えません。お恥ずかしいあまりであります。結果はどうであれ、これからも「初心忘れるべからず」でごぼはんだよりを発行していこうと思うばかりです。できますれば、一言でよいですから「たより」について一言ください。あれは違うと思うと言うことで結構です。また、嘘でも良いですから何時もみてまますと声をかけてください。お願いいたします。それが私の励みになります。

 さて、本年も祠堂経会を6月26日~27日につとめさせてもらいます。今回もと言うことになりますが、改めて講師をお呼びすることをやめて当時住職がお話しさせていただくことにしています。
 多分ですが、二日間とおして、「供養」と言うことについて話しさせていただこうと思っています。お寺参りに来られるのも、また月参りをご希望されるのも「先祖を供養するため」という気持ちから起こってくる方がほとんどといって良いのではないでしょうか。しかし最近私は本当にこの「供養」という言葉が本来とは違う使い方をされていると思っています。その中でお寺参りや月参りをする意味が見えずらくなってきているように思います。本来供養とは純粋な敬う心を形にあらわしたものであると私は考えています。自分に災いや祟りがやってくるのを恐れるためにするものでは決してありません。
 誤解をおぞれずに言うならば、先祖を供養することが大事なのではなく、先祖を供養する存在として出会うことが何よりも大切なことなのです。お寺参りをするのも月参りをするのも先祖を敬うべき存在として出会うためにあるといっても良いことなのかも知れまえん。
 そのことを二日間とおして皆さまといっしょに考えてゆきたいと思っています。

 何事も多様なこととは思いますが、どうぞ、ご都合を合わせて、そしてご近所さんをお誘いの上、同時の祠堂経に足をお運びください。おまちいたしております。

祠堂について
お寺に寄附をすることを祠堂といいます。どうも祠堂銭という言い方を以前はしていたようです。身内が亡くなられたことを縁としてお寺に祠堂されることが多いです。いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄附ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければよろしいです。また金額もお気持ちをお入れください。多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがお寺にとってこの上ない喜びです。
 常入寺では祠堂を頂いた方々に祠堂のお勤めを祠堂経会の初日にまとめてさせていただいています。今年の祠堂経会の時にと思われるのでしたら出来るだけ早くお申し込みください。準備の都合等がございますので、祠堂経会の当日祠堂いただいてもお勤めできないこともございます事ご了承ください。
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私の持ってる当たり前は当に当たり前なのか?
 気づけば、ジャガイモが花を持つ季節になってます。時はめぐるものなのですね。今年は天候不順というか、何時もと違っててつい不安を感じてしまうのですけど、もう6月です。
 今年の冬は珍しく雪が結構積もり寒さも結構厳しかったような気がします。たいがい大雪の時は春の訪れが早いというか、春は暖かいというのが常識なのですけど、今年は春がなかなかやってきませんでしたし、春を過ごしたという実感が湧かなかった四月五月でした。春の初めに植えたジャガイモもなかなか芽を出さず、どうなっているのかと心配しましたが、でも、今ちゃんと花を咲かそうとしています。初夏を迎えたと言えるのでしょう。
 ここ数年「異常気象」という言葉が毎年テレビなどから聞こえてきているような気がしてなりません。そして私たちも茶飲み話で何時もと何かが違うと話ししていますね、最近ずっと。
何時もと違うという意味では「異常」な気候なのでしょうけど、しかし本当に異常なのだろうかとも私は思うのです。もしかすると地球からすればこれが本来なんだよ、と言われそうな気もどこかするのです。
 正常とか異常という判断をしているのは私たちです。私たちの経験の中でそれを判断しています。しかし私たちの経験歴史というものは地球の歴史というレベルで考えるとほんのわずかな歴史、経験としか言わざるを得ません。地球がこの世に誕生して46億年だそうです。そして私たちの人類がこの地球に誕生して15万年と言われています。私たちの人類の歴史というのは地球の歴史から比べるとちっぽけなものです。ほんのわずかなものなのです。地球の歴史を一年にたとえると人類の誕生は、12月31日、大晦日の午後11時42分になるそうです。私の歴史と地区を比べればミジンコぐらいほんのわずかです。
 そういう私たちが、正常とか異常といってしまうのは本当によいのだろうか、正しいことになるのだろうかと私は思ってしまうことなのです。自分の抱え込んだ常識をもの差しとしていろんなことを考えることには危険性があると言わざるを得ません。

やっぱり私たちには「想定外」というのは常に有り得ることなのです。また想定外と思っているのはわたしたち人間だけなのかも知れません。想定外と言い訳することは人間のオゴリなのではないでしょうか。

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目をふさぎたくなる事実より...
 私たちが経験したことのない大きな地震が3月11日おきました。マグニチュード9.0だそうです。正直この数字を見てもどれぐらい大きい地震なのかということは私には想像がつきませんが、テレビのニュースで流されている画像を見ていると、とてつもないことがおこったのだということだけはわかります。
 地震の揺れだけならばこんなに大きな被害にならなかったのでしょうが、地震に伴う大津波が被災地沿岸部に押し寄せて、何もかもさらっていってしまいました。テレビを見ていますと本当に瓦礫の山です。訳のわからないところに大きな船が横たわっていたり、ビルの上になぜか車が引っかかってました。本当にどんな事が起こっていたのでしょう。想像がつきませんし、正直、怖くて想像したくありません。数えられないぐらいの人々の生命がさらわれ奪われていきました。また多くの人々が色んなものをはぎ取られ途方に暮れられています。
本当に心苦しいです。
このことが夢であったらと何度も思いました。テレビを見ているだけでそう思うのですから、被災地に赴き現状を見たらどうなのでしょうか。被災者の方々のことを思えば心苦しいです。
 そしてもう一つ、この地震による大津波により福島第一原子力発電所は大打撃を受け、あのチェルノブイリに次ぐと言われるぐらいの大事故を起こしています。そして日を追うことにとてつもない事故だという事実が知らされています。放射能物質がまわりに飛散し農産物、そして飲料水にまで影響を及ぼしています。
 想定外の大地震大津波だったにせよ。日本の原子力発電所は安全です。アナウンスされていたことは何だったのでしょう。そう思わずにはおれません。この後どうなるのだろう、子ども達の未来はどうなるのだろうと、不安と心配がない交ぜになって押し寄せてきます。

 大地震、大津波による大惨事をテレビなどから流し込まれると、「不安」が私の中から立ち上ってきます。そして私のまわりを覆い尽くし、漂っています。
 しかしこの不安はこの大震災によってのみ湧き出てきたことなのでしょうか。私はそのようには今は思えません。もともとあった不安が大きくなったり、この大震災によって元々あったものが目につくようになったことではないでしょうか。異天間で色んな方法で誤魔化してきた不安がこの大震災によって誤魔化しきれなくなっただけなのではないでしょうか。
 どここぞの誰かのように大震災は天罰だとはけっして言いませんし、思いません。しかし、何か大切なことを問いかけてくれているのかも知れません。私たち文明人の「驕り」の生活への忠告なのかも知れません。
 少なくとも、親鸞聖人の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなき」という私の在り方、そしてそういう世界を自分は生きているという私たちの事実を指し示してくださっているお言葉と大震災によって明らかになった自分と私たちが住むこの社会のありようが重なってくるように感じます。
 私たちの生活を見直す大切な機会として今あるのではないでしょうか。
 未来に向って私たちが歩んで行かなくてはならないことでしょう。

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 二〇一一年という新しい歳を迎えました。本年は本山において親鸞聖人七五〇回御遠忌法要が勤まるという節目になる歳であります。皆様本年も昨年同様よろしくお願いいたします。
 さて、昨年を振り返れば、どうなっているんだろうという事件が、テレビなどを見ていますと沢山目に飛び込んできたような気がします。幼児虐待、反対に親が我が子をわがてで殺すなど、その度目を背けたくなる事件がたくさんあったような気がしてなりません。こういう事件を眼にすると『イヤな時代になったな~』『人間がおかしくなったのでは』とおもったり、『昔は良かった』『大事なものを忘れてきたのでは』と思ったりもします。私もそう思うのですが、でも一方でそうなのだろうかとも思うことがあります。本当に人間が変ったのでしょうか、私たち人間の根性が変ったのでしょうか。そうではないような気が私はするのです。
 たまたま今まで私たちの根性が見えにくくなってたりしてただけなのではないでしょうか。経済的に豊でなかったり、ものがなかった「昔」は独りでは生きていけない、みんなで生きて行かなくてはならないという思いが強くあったのですが、経済的に豊になった今、「ともに生きる」という必要性が見えにくくなり、自分の幸せだけを追求していったり、自分の思いだけを通すことのできる時代になったのではないでしょうか。その中で私たちの奥に隠れていた「悪い」根性が表に噴出しやすくなってきただけなのではないのでしょうか。わたしたち人間が変ったのではなく、ただ隠れていたものが表に出てきて眼に入るようになっただけだと思うのです。
 私たちを救ってくださる阿弥陀如来は私たちを救うために佛と成られ私たちを今救済してくださっています。阿弥陀如来からすれば私たちは救わざるをえない存在だったのです。佛になって救ってやらなければならない生き方をしているように映っているのです。そういうすがたが、私たちがこのままでは救われていかない生き様が、こういう時代のおかげで目につくようになってきたのではないでしょうか。
 目を背けたくなる事件を見て「イヤな時代になった」「なんて悪い奴だ」と思うことにとどまらず、目を背けたくなる事件を起こすためが私のなかにもあるのだと気づいたり、頷いていくことが大切なのではないでしょうか。
 そういう私たちのために阿弥陀如来が手向けてくださった南無阿弥陀仏というお念仏を称えていく道、人生を送っていかなければならないと思うわけです。
 阿弥陀如来の悲願が頷きやすい時代に今なっているのです。

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