2012年1月アーカイブ

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仏法に聞く歩み
 お釈迦さまは私たちのためにたくさん教えを説いてくださいました。その尊い教えが「お経」として今私たちの処に届いています。ですからお経というのは死んだ人のためにあるものというよりは生きている私たちのためにあるものであり、私たちが聞き続けていかなければいけないものといえると思います。
 お念仏を称えてこられた先輩方は、「仏法を聞くものではなく、仏法に聞いていくものなのだ」とおっしゃられてきました。どこがどう違うのかなんて思ってしまう言い回しです。「を」と「に」の違いです。違いを考えるだけで頭が痛くなってきそうですけど、大きな違いがあるし、大事な違いがあると考えられてきたことなのでしょう。
 私はこんな違いがあるように思っています。自分の知識を高めるために仏法を聞くことと、自分の人生を仏法に聞いていく。前者は仏法はあくまで今のままの自分に役に立つ道具であり、後者は揺るぎない仏法物差しによってによって自分というものがなにものであるか明らかにしていくもの、そういう違いがあるのではないでしょうか。私は仏教は宝石などで作られたネックレスみたく自分を美しく飾っていくものなのではなく、仏様の教えに出遇うことによって、自分につけられた飾りや鎧を一つひとつ外していく歩みなのではないでしょうか。仏法を聞き続けていかなければならない自分に頷いていく歩みが、仏法に聞いていく歩みであると私はいただいています。そういう生活を私たちの先祖たちはお念仏を称えながらされてこられたわけでしょう。
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 新年を迎えることが出来ました。お正月はあちらこちらで新年の挨拶が聞こえてきます。なんとなくはなやかなきもちになるものですね。しかし、昨年の年末にテレビで「今年大震災を迎えたので、新年の挨拶でおめでとうございます、という言葉に違和感を感じておられるかたがおられる」というようなことをニュースのなかでいっていた。一年以内に家族を亡くしたかたは、お正月をしない、新年の挨拶をしないというのと同じ思いなのだろうと感じるわけです。そう思うのは間違った考え方であると断言することは決してできない。ただ新年の挨拶としてなぜ、明けましておめでとうといってきたのかとを知って考えてみる必要があるともうのです。
 よく考えれば自分も昔、何でお正月になっただけでおめでたいのか!なんて疑問を強く持ってたことがあった。なぜめでたいのかと言うことがわかってなかった。今は私の中で少しそのことは整理できてます。
 お正月は昔みんなの誕生日だったからお正月がめでたかったのでないかと今は考えています。明けましておめでとうは誕生日おめでとうと同じ意味だと私は今考えています。そんなこと今言ってもすっきりする方は少ないかもしれませんが、今は歳の数え方は満年齢で数えます。だから誕生日は生まれた日が誕生日で、歳が増えるのも誕生日です。でもしかし本来日本では歳の数え方は数え年でした。歳が増えるのはみんなお正月に等しく一つ年をとったのです。だから昔はみんなの誕生日はお正月であったと言っても間違えではないと欲うのです。
 お正月になり、一つ年をみんなとり、一年間生かさせていただきました。また一つ歳をとらせていただきました。ありがたいことです。めでたいことです。そういうことだと思うのです。
 自分の中で受けがたい事実があってお正月を迎える気になれないという思いを持つことは大切なことです。でもしかし、おめでとうと言ってはならないと他人に諭すことはいかがなことなのでしょうか。
 自分の中にどんなことがあってもお正月に一つ歳をとらさせていただいたことを喜んだり、一年間生かさせてもらえたことを喜ぶこと結構大切なことなのではないでしょうか。そういう意味で何があってもお正月の挨拶は「明けまして(お互い一つ歳をとらさせてもらい)おめでとうございます」なのではないかと思うわけです。

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