2010年アーカイブ

御正忌法要
11月21日(日)午前10時より午後3時30分まで
午前の部 午前10時より
尼講追悼会 午後2時より
午後の部 引き続き
☆法話は住職が行います。
☆尼講によって、
お昼にお斎のもてなしがあります。
2010年報恩講並びに当寺前坊守十七回期法要 表白
今ここに有縁の人々が万障繰り合わせここに相寄り集い常入寺報恩講満座、並びに当寺前坊守 法名釈尼淳妙十七回期に 当たり今法要をいとなむ
思うに、前坊守は常入寺を護ることに尽くされた。また、「念仏相続」という言葉をよく使っておられた。それはお念仏を相続するための施設としてお寺を見出しその維持に尽くされた生涯であったということであろう。
阿弥陀如来は 私たちの救わざるを得ない我等が生き様を目の当たりにして悲しまれ 本願を願われました。
そしてさえぎることの ない光を我等に放たれその事実を我等にお示しくださっているのです。
いまここに 釈尊や親鸞聖人、そして私に先立って南無阿弥陀仏の生活をなさってこられた諸先輩方々の勧めをいただき 阿弥陀如来の本願を信じ ただひたすらに 南无阿弥陀仏を称える道を歩ませて頂いています。
いま法要を勤修するに当たり仏説なる阿弥陀経と親鸞聖人がお造りになられた正信念仏偈のみ教えを聞法せん。
このことを縁として阿弥陀如来が我等を照護したもうことを我等の宝とし、感謝の念仏となるえる生活といっそうならんことを念願いたすところである。
常入寺住職
敬って 白す

報恩講厳修
並びに前坊守十七回期法要
十月三十一日午後二時より一月一日午後三時まで
10月31日(日) 午後2時より 午後のおつとめ
午後6時より 親子の集い
11月1日(月) 午前9時30分より 午前のおつとめ
午後1時30分より まとめのお勤め と前坊守十七回期法要
★長寿者などを対象に自宅からゴボハンへ、ゴボハンから自宅への送迎サービス(無料)を実施いたします。前もって電話をいただければ係のものが迎えにまいります。是非ご利用ください。
お説教は昨年同様 松井 勇さん(南砺市)です。
お斎は11月1日あります。
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本年もいつものごとく常時の報恩講を勤めさせていただきます。そして合わせて、前坊守、すなわち私の母親の十七回期法要を勤めさせていただきます。
そしてご門徒の方々には、当寺の前庭を壊して、駐車場にしていただきました。また法要に間に合うようにと住職の願いを受け止めていただき工事を急いでいただきました。お礼の申しようもないぐらいありがたいことだと思っています。心よりお礼申し上げます。
さて、前坊守が亡くなりもう十七年経つのか、早いなぁ~と、ちょっと他人事状態にあります。でも、月日が経つのは早いものですね。あのとき母が亡くなり家族が誰もいなくなりました。でも一人増え一人増えして今は六人家族になっています。6倍に増えているのです。長男も中学校一年生になってます。そういうことをどういうふうに表現すればよいのでしょうか。よくわかりません。多分前住職が亡くなってから命終えるまで、前坊守は無我夢中とも言うべく生活を送っておられたのでしょう。お寺を何とか守ってゆかなければならないそのことだけを思われていたことなのだろうと、今になってようやく思うようになりました。私と前坊守は私が大学を卒業してお寺に帰ってきてから戦前戦後の教育の違い、お寺の運営の仕方の相違と言うことがあって皆さんよくご存じのように喧嘩ばっかりしていました。どういう事で喧嘩をしていたのかという詳しいことはほとんど覚えていませんが良く言い争っていたことだけは覚えています。
前坊守は伝承と独学の中で浄土真宗の教えを学んできました。その中で私からすれば危ういと思うことがたくさんありました。しかし受け継ぎたい言葉もあります。それは「念仏相続」という言葉です。伝承されてきた言葉なのか、念仏生活の中で感じた言葉なのかよくわかりませんが。今でも良くお説教をするとき締めの言葉として使わせてもらっています。これは母が法要後門徒さんの前で語っておられた言葉です。本当に大事な言葉だと思いますし、皆さんも大事にしていただきたい言葉ですし、私も生きる道しるべとしてゆきたい言葉です。
念仏相続、念仏を受け継いで行こう!ということです。よく「今はお寺は大丈夫だけど、私たちの次の世代どうなるかわからんよ」というような助言を頂きます。本当にそうだなと感じています。これからお寺を維持していくということは本当に難しいことであり、生半可な気持ちでは大変だと肌で感じさせていただいているところです。皆さんのその思いは本当に心配なさってくだされているのだと思っていますが、しかし、その前に私たちはお寺は相続しているわけですが、お寺の役割って何だろう、お寺って何をするところなのだろうということを今だからこそ確認しておかなければ行けないのではないでしょうか。ただただ建物だけを維持していくことに専念することは勿体ないことだと私は思ってます。維持することが行けないことでは全くないですが、その存在意義を私たち一人ひとりの中で明らかにしておく必要があると思うのです。
その答えの一つが「念仏相続」ということだと思うのです。先祖が宝物として代々受け継いでこられたナムアミダブツという言葉を次の世代にも、そして私自身も受け継いでいく、そのためにあるのが浄土真宗のお寺なのではないでしょうか。私たちは南無阿弥陀仏ナムアミダブツという言葉はまだ声に出して言えるかも知れません。しかし、念仏として、阿弥陀如来に感謝する気持ちで念仏を迷いなく称えることが出来ているでしょうか。念仏の信心を如来様より頂いて念仏を称えているでしょうか。そういう念仏を私たちは受け継いでいかなければならないことでしょう。そのためにどうぞ、お寺につどいください。

私たちの国を和国ともいうように私たちは「和」という言葉に親しみを持ってきたり、大事なこととしてきたことなのだろう。多分、和を大事にするようになったのは聖徳太子がきっかけなのだろう。聖徳太子というお方は公に仏教を初めて日本に持ち込まれ、そして仏教によって日本の政治を司ろうとなさったお方です。親鸞聖人は聖徳太子様のことを「和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし 一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ」と御和讃の中で歌われています。聖徳太子様のことをお釈迦様のような方であるとほめ称えられているのです。
聖徳太子様は日本の政治をするに当たって、「十七条憲法」を制定なされました。そしてその第一条に私たちがよく知っている言葉、「和をもって貴し」が書かれているのです。しかし、一般的には「和」という漢字を「わ」と呼んでいますが、伝統的には「やわらか」というように読まれてきたようです。個人的にはヤワラカをいつの頃からワと読むようになったのかということは非常に興味深いことです。読み替えられるようになったわけを知りたいものです。ヤワラカと読むということは和ということはただ単にみんな仲良くする。とにかく角を立てずになかよくするという意味ではないということを教えてくれているように思えます。そういう本当の意味を隠すためにいつしか誰かがヤワラカと読まずにワと読むようにしていったのではないでしょうか。
心やわらかになってみんな仲良くしていくことこれが十七条憲法における和の精神なのでしょう。心やわらかということは自分の意見を絶対化して他の意見、他の立場を受け付けない、ということでは全くなく、自分とは他の立場・意見を大事にして真実に向っていく姿勢が和の精神なのでしょう。十七条憲法第一条の全文は
和らかなるをもって貴しとし、忤うること無きを宗とせよ。人皆党有り。また達る者少なし。是をもって、あるいは君父に順わず。また隣里に違う。しかれども、上和らぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、事理自ずからに通う。何事か成らざらん
です。上に立つものこそ、和の精神を大事にしなければいけないということなのでしょう。
今テレビのニュースなどでは、尖閣諸島の問題が取り上げられていますし、日中関係の大きな問題になっています。このことも、お互いが自分の主張ばかりするのではなく、相手の立場、相手の意図を訪ねながらとことん話あっていくことが大事なことなのではないかと思う訳なのです。

近年縁あって差別のことをずっと学んでいる。本当にいろんな人にお会いさせて頂いたことだ。そしていろんなことを学ばして頂いた。今思っているというか考えさせラテていることが「無関心」ということの罪だ。
差別という現生の中に、差別する人とされる人がいる。いうまでもなく差別する人が問題なのだ。差別される人には何の罪もない。また、どんな理由があっても、差別して良いということは絶対にあり得ない。差別するものが変っていくこと、差別をしないようになることによって差別はなくなっていくものだ。
最近差別についてもう一つの立ち位置があることに気づかされた。それは無関心というか、差別を自分の問題としないで何のアクション、行動を取らないという位置だ。よくよく考えれば、差別する人も差別される人もそんなに多くいるようには思えない。大多数はどちらにも所属しない。しかしその中で差別することが継続されている。もし大多数が差別に対してノーというアクション、表現をすれば差別は続けることが出来るだろうか。
今年春の頃テレビのニュースなどでは、沖縄の基地の問題、とりわけ普天間基地のことが取り上げられていた。そのときあるニュース番組で沖縄の人が沖縄に基地が集中していることに対して、これは「沖縄差別だ」と仰っておられた。その事が印象的だったし、ドキッとさせられた。自分に言われたような記になった。自分自身、沖縄にあこがれのようなものを持っている。十年ぐらい前、沖縄で開催される本山の研修会に参加しようと沖縄へ飛行機で行ったけど、残念ながら沖縄の地の立つなり、携帯電話が鳴り、帰ってきてほしいといわれ、泣く泣く数時間の滞在で帰路についたことがあって、なおさらあこがれのようなものを感じる。自分の中では沖縄を、沖縄の人を差別しているという自覚は当然全くなかった。そういう意識の中で「沖縄差別」という声が聞こえてきてビックリしたし、ドキッとした。
沖縄の人からすれば、沖縄に基地を押しつけようとする人たちも、そのことに無関心であったりしてそのことに何も表現しない人も一緒なんだろう。何もアクションを起こさないということは肯定していることと何ら変わりないということなのだろう。差別を否定しないものは差別していることと等しいということなのだろう。私たちがそのことが差別であると認知していようがなかろうが全く関係のないことなのだろう。
差別を意識してすることは当然人として許されることではありません。また、見て見ぬ振りをすることも、差別を差別として認知できないこと、差別を見ようとしないこと、そういうことも結果差別されている人を苦しめていることになるのです。人として生きたいという叫びをしっかり聞き取れること、叫びと認知できることが私たちが共に生きていく歩みの中では本当に大切なことなのではないでしょうか。
こういうことを考えていくと、私たちは自分の無関心ということでどれだけの人を苦しめてきたことなのだろうと思ってしまう。人が人を差別することの悲しさ、人を傷つけることの悲しさをどれだけ知っていくかということによって共に生きるという終わりなき歩みをずっと歩んでいくことが出来るのではないだろうか。

御文をいただく 其の十二 5帖目第二通③
蓮如上人がおが書きになられた御文の中で私の好きな御文の一つがこの御文です。だけど少し気になる表現もあるのもこの御文です。どこが気になるのかと言えば
たとい一文不知の尼入道なりというとも
というところなのです。
なぜ八万の法蔵を知るものの反対の言葉が一文不通の尼入道なのか、と思うのです。尼入道という言葉は必要ないのではないかと私は思うのです。蓮如上人の女性に対する差別心のようなものを感じてしまうのです。いうまでもなく蓮如上人は女性弥陀の慈悲によってすくわれていくということをよくおっしゃっられたお方です。その方がなぜこういう表現をされるのだろうかということを現代医社会を生きているわたしは疑問に持ってしまうのです。
ただ蓮如上人が生きておられた時代は女性に対する偏見は今以上にすごい時代だったことは間違いありません。社会の常識として、男性より女性は救われがたいものという考え方があたりまえのこととしてありました。というか根強かったわけです。その中で女性が救われるのだと強調することは本当に意味のあったことだったことでしょうし、女性に生きる力を与えた言葉なのでしょう。
しかし現代は女性に対する偏見が全くない時代とは言えませんが、そういうふうになることを願っている人が沢山いる時代です。女性が解放されていくことを願い、男女が共に生きていける世界を願っているものにとって今、蓮如上人のこと言葉が力になるとは私は思えないのです。今の時代には響かない言葉になってしまったということは間違えないことでしょう。
さて、後世を知らないものが浄土門を求めるものにとっては愚か者であり、後世を知る者が智者だと言われています。しかし智者は知る者とは書かれていません。智慧の智が使われています。ということは浄土真宗では愚か者の反対の言葉は、知識を沢山持ったものということではなく、仏の智慧を知る者、仏智のはたらき(恵み)を知っている人となることなのでしょう。そして、知識あるものは必ず智慧を知っていることにはならないということです。仏道を歩むということはあらゆる知識を頭の中に詰め込んでいく道ではなく、仏智より知らしめる我が身の後世について頷いていく道なのではないでしょうか。

サッカーのワールドカップが今南アフリカで行なわれています。(この文章を書き上げているとき)しかし、日本の代表は決勝トーナメントにて一生も出来ずに残念ながら終わっていきました。テレビなどのマスコミでは、サッカーワールドカップの話題を取り上げない日はなかったと言って良いぐらいでした。これから少しずつ静かになってゆくことでしょう。私はそういうはやりに乗るのが苦手で、今の場合も同様で、気にはなってますが、試合を生放送で見たのは本当に数回でした。
この以上敵状態でおもしろく思っていたのが、日本代表を務める監督への対応が、マスコミといえばよいのか、世論といえばよいのかわかりませんが、ワールドカップが始まるときまでは、批判の的、悪の根源はカレだといわんばかりでしたが、予選で一勝しただけで、ころりと表現が変って、神様のように扱っていたのが、滑稽でたまりませんでした。監督というのはどれだけよい選手を育てたとしてもよい結果、試合に勝つという事実が生まれなかったならばダメな監督と評価されるのだとしみじみと考えさせられました。
私たちは何か悪いことが続くと、その原因をつい探します。それがよい結果を生み出すこともあるのでしょうが、そうでない場合も結構あるのではないでしょうか。坂k-の場合はワールドカップが近いのに負けばっかり続くのは、岡田監督の指導力、采配が悪いからなのだ、ということになってしまったことなのでしょう。しかたないといえばしかたないことなのでしょうけど。
私たちが悪の原因を探るとき、私たちは決して自分が悪の根源だという結論にはならないのではないでしょうか。人から指摘されもしかしてと思うことはあるかも知れませんが。すべて私意外の他に原因を持って行くものなのではないでしょうか。そのことによって自分に安心をもたらすことになります。
しかし私もそういうところで安心するというか、そういうところでしか安心できないのですが、でもそういう自分の在り方になぜか疑問を持つのです。こういうあり方が人を追い込んでいったり、人間勧化をくずしていくのではないかと思うのです。
念仏を相続されてきた私たちの先輩方は、「自己を問う」ということを大切にされてきました。我が身が罪悪深重の救われがたき身だと気づき続けて良かれおねんぶつを頂かれて行かれています。
私たちは結構人を日アンする目は確かなののがあります、その視線で、我が身をじっくり観察することこそ、大事なのではないでしょうか。阿弥陀如来様から照らされている我が身をしっかり見つめてゆきましょう。そういう歩みの中からあらゆる人々と共に歩むという大乗仏教の根本精神の大切さが思い知らされ、また念仏の尊さに気づいていけることでしょう。
祠堂経会厳修
二〇一〇年七月四日午前十時より日午後四時まで
七月四日(日)
午前の部、並びに祠堂のお勤め
午前十時より
尼講のお勤め 午後二時より
午後の部 引き続き
七月五日(月)
午前の部のお勤め 午前十時より
午後の部のお勤め 午後二時より
※四日は尼講による昼食の振る舞いがございます
それぞれのお勤めのあとに法話があります。(午前の部十二時頃、午後の部四時頃終了予定です)
法話は、両日とも当寺住職がお話しいたします。
皆さんといっしょに聞法いたしたいと思っています。
ご近所の方々をお誘いの上お参りください。
お待ちいたしております。
祠堂についてお寺に寄附をすることを祠堂といいます。どうも祠堂銭という言い方を以前はしていたようです。身内が亡くなられたことを縁としてお寺に祠堂されることが多いです。いつ祠堂すればよいのですかと聞かれることがありますが、寄附ですので、しなければいけないこともありませんし、いつということも決まってはいません。思い立ったときお寺にお持ちいただければよろしいです。また金額もお気持ちをお入れください。多い少ないということはありません。祠堂しようというお気持ちがお寺にとってこの上ない喜びです。
常入寺では祠堂を頂いた方々に祠堂のお勤めを祠堂経会の初日にまとめてさせていただいています。今年の祠堂経会の時にと思われるのでしたら出来るだけ早くお申し込みください。準備の都合等がございますので、祠堂経会の当日祠堂いただいてもお勤めできないこともございます事ご了承ください。
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最近ふと思うのですが、私が小さかった頃と比べお参りの時のお念仏の声が本当に小さくなったと思うのです。私たちの教えは南無阿弥陀仏とお念仏申すことを宗といたします。それなのに今本当にお念仏の声が聞こえなくなった、とはもうしませんが、本当に小さくなったと思うのです。これでよいのでしょうか。ある意味危機的状況と言っても良いのではないでしょうか。皆さんはどうお思いでしょうか。
お念仏は私たちの先祖が我が家の最も財産として相続されてきたものです。それが今私たちのところに伝わっているのです。それを受け継いだはずの私たちの思いには、お念仏を称えようという思いが強く湧いてきません。これでいいんでしょうか。
お念仏は先祖が相続してきてくださったものです、だけど其の許を訪ねれば阿弥陀仏の願いにあります。私の願いがあらゆる人に触れてもらいたい。そのために私の名前をあらゆるところで響き渡らしたい。そういう願いが始まりです。そして、その阿弥陀仏の名前を聞き、その中で阿弥陀仏の本願、佛となったわけに触れ、その願いに出会えたこと喜び、出会えたことの感動、そして阿弥陀仏の願いに感謝されて、南無阿弥陀仏ナムアミダブツとお念仏申されてきたのです。
今の現状は、先祖からプレゼントをもらっておきながら中身を開けず、その価値をも知らず放置している状態が、私たちなのではないでしょうか。先祖たちが現状を知れば、勿体ないことと歎かれることでしょう。そしてまた、そういうありようだからこそ阿弥陀仏は本願を起こされ、私たちにお念仏を手向けられたのだと、またお念仏の尊さに喜んで行かれることでしょう。
とりあえずでよろしいですから、お念仏の試食、味見をしてみませんか?せめて仏事が催されているときお念仏申してみようという決意をしてみませんか?
南無阿弥陀仏、ナムアミダブツ、なんまんだぶつ

それ、八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を愚者とす。
この文章は私たちはなぜお聖教を読むのかという事が端的に記されているところであります。後世を知るためにお聖教があるのだと蓮如上人は教えてくだされているのです。後世というのは後の世という事で死んだ後の事と理解されてもかまいませんが、もう少し広く、今より後、私の未来すべてと理解した方が現代を生きる私たちにとってはこの言葉のお心がとらえやすくなるのではないかと私は思います。私のこれからを知るためにお釈迦さまのお説教が書留められているお経様をはじめとするお聖教があるのだ、そのことを求めずお聖教を読むのは本当に勿体ない事なのですよと、私たちに蓮如上人は語りかけてくださっているのです。
私たちはこのままのありようで生活していっても安泰なのでしょうか。現在ただ今の自分を知り、また、今までの自分の有り様振り返ると、私の未来は?何とかなるさ、と本当に言い切れるでしょうか。大丈夫ではないとお聖教は常に私たちに語りかけてくださっています。
善導大師というお方は
「読誦大乘」と言うは、これ経敎はこれを喩うるに鏡の如し、数々又読み数々尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、即ちよく苦を厭いて涅槃等を欣樂することを明す。
と仰っておられます。自分の全部の姿というものは私たちは直接私の目で見る事ができません。私たちは一部しか見ることができてないのです。私の姿を全部見ようとすれば、私の姿を映し出してくれる道具が必要なのです。水面や鏡がそれです。私の形としての姿も一部しか知りようがありませんが、私の人生の相も同じです。一部しか知り得ていません。ただ知ったつもりでいたり、見て見ぬ振りをしているのが私たちではないでしょうか。見えていないところを、見ようとしていないところの自分ををお聖教は指し示してくださっているのです。
私たちが知り得てなかったり、知ろうとしてない自分のすがたとはとういうものなのでしょうか。蓮如上人は良く「後生の一大事」と言う事をよく言われます。またこの御文には「後世」という言葉が何度か出てきます。このままで本当に大丈夫なのか、とお聖教が私たちに問いかけでくださり、その大丈夫ではない証拠を常に指し示してくださっているのです。お念仏を頂いていくしかない身をお聖教は私たちに鏡のように映し出してくださっているのです。
そのことに頷き続けていく、そのことが本当に尊い事であったと気づき続けていくのがお念仏の歩み浄土往生の道なのです。
御文をいただく 其の十帖目第二通①八万の法蔵
法蔵とは仏法の蔵、仏法が納められているものという意味で仏教教典のことを言います。今、現存している仏教教典は八万あるというふうに言われています。正確に八万冊あると言うよりは、満数として、多いという意味で八万という数が用いられているのでしょう。言うまでもありませんが、正直性格に私はいくつあるか仏教教典の数を数えたことはありません。あしからず。
教典とは、お釈迦さまが説かれたお説教が書留められている「経」、そして菩薩という位の方が書かれた「論」、そしてその他の方が書かれた「訳」に細かく分類されることもあります。私たち浄土真宗では、正依、まさしくよりどころとすべき経として、浄土三部経があります。浄土三部経とは、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を言います。また無量寿経は元もと昔のインドの言葉か書留められていたものを中国の言語に翻訳されるという事業が十二回なされたと言い伝えられていますが、現存して今読むことのできるものは5種類しかありません。その中で私たちは、今から約千八百年前の康僧鎧という方が翻訳されたものをよりどころとしています。
論としては、龍樹菩薩がお書きになられた『十住毘婆沙論』天親菩薩様がお書きになられた『浄土論』が選ばれています。また、親鸞聖人は、『浄土論』の本釈書である『浄土論註』という書物も論として位置づけられている気配も見受けられます。訳としては、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信大師、源空上人などがお書きになられたものを正依の論として選ばれていることでしょう。
仏教をひらかれたお釈迦さまは私たちに教えを伝えるために書物をお書きになられたと言うことはありません。そのとき、その人が理解しやすい言葉でお語りになられています。そのお説きになられたお言葉を直接聞かれた方々が頭で覚えて人に伝えられていましたが、お釈迦さまがお亡くなりになられてしばらくしてから、後の世にしっかりお釈迦様の教えを伝えていこうと言うことになり、お釈迦さまのお説教を聞かれた方々が集まられ、文字で書き残す作業をされました。それが、仏教経典の始まりです。ですから最初の教典は昔のインドの言葉で書かれています。しかし、今私たちが目にする経典は漢字で書かれています。それはインドの言葉で書かれていた経典を忠告の言葉に書き換えられた人がいたからです。自分たちの国の言葉で書き換えて多くの人に仏教に触れてもらいたいという大きな願いがあったからです。その願いの置くにはお釈迦さまのお言葉に触れ尊い教えと頷かれた事実があるからです。
今を生きる私たちは、お釈迦さまというエライ人が語った言葉が経典には書かれているという理解だけではなく、経典に書かれている言葉に触れて、私にとって尊いことが書かれていると頷くことが本当に大事なことなのでしょう。

はなまつり
釈尊降誕会
4月3日(土) 後1時30分より
常入寺にて
主催 老田各宗団
お釈迦さまがこの世に存在され、教えを説きそして仏法を指し示しくだされたことを喜ぶ法要
子ども達よ つどえ!
釈迦さまの誕生会をしましょう
参りくださった子どもさんたちにはおみやげを用意してあります。
釈尊誕生
4月8日はお釈迦様がお生まれになられた日だと伝えられています。今から約2500年前のことです。そのことを縁として各地で「花まつり」が催されます。
言い伝えによればお釈迦様はお生まれになられた時、すぐさま七歩歩かれ、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったそうです。しかし、現代社会の中に生まれ生きている私たちはこういう話を聞くと「生まれてすぐさま歩けるはずはない」「生まれてすぐさましゃべれるはずもない」というように疑ってしまいます。
この言い伝えが本当であるとかないとかと言うことを私たちは論議したりしてしまうのですが、疑う中でも、少なくとも、そのことがなぜ伝えられてきたのかという背景、願いというものはしっかり聞いていかなければいけないことでしょう。七歩歩かれたと言うことには六の次が七であると言うことがあるのだと思われます。六、すなわち六道、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界を超えるために仏教の教えがあるのだ、ということが私の耳には聞こえてきます。私たちがあこがれる、天上界、そこに住む神様の生き方までも迷いと押さえ、その迷いの世界を巡ることを超えることが釈尊が説かれた仏教なのです。迷いの世界に執着し、その中であくせくしている私自身の生き方の悲しさに気づきもしないで生きているのが私たちなのです。そういう私たちを何とかしようと願われてるのがお釈迦様です。私たちがお釈迦様と同じ悟りを開く必要はありません。その教えに生きていけばよいことなのです。
我が身の生き様を仏教を聞くことによって明らかにされてきた先輩方は、そのことに気づけたことを喜び、その教えを説かれていたお釈迦様に心から感謝なさってこられました。そういう意味でも、お釈迦様がこの世に存在されたこと、お生まれになられたことを喜んでこられたことなのでしょう。生まれてくれてありがとう、と。
あらゆる人たちの誕生日も「生まれてくれてありがとう」と感謝することが大切なのでしょう。「おめでとう」という言葉の意味を尋ねていきましょう。

自殺について考えてみませんか?
謹啓 余寒なお厳しき折自殺について考えてみませんか?
、皆様方には益々ご清祥のことと拝察いたします。
解放運動推進小委員会では、本年5月25日・26日の両日に亘り、第33回北陸連区差別問題研修会を開催いたします。
その一環として、解放運動推進研修会として、高橋祥友氏、梶原敬一氏をお招きし、お話をいただきました。
今回、北陸連区差別問題研修会のパネリストである、尾角光美さんをお招きし、第3回解放運動推進研修会を開催いたします。
尾角さんは、"生と死で「いのち」であり、死を見つめることで
生の実感が深まる。闇があっての光のように。""亡くなった人との関係は、死後も豊かに深まり得るもので、消えてなくなるものでは、ない、と思っています。"とホームページの中で語っておられます。
活動のきっかけや内容、願いや思いについてお話をいただきます。
つきましては、下記のとおり開催いたしますので、是非お誘いあわせてご参加いただきたく、案内申し上げます。 合掌
尾角光美さんからのメッセージとプロフィール
自死(自殺)について考えることは、私たちが「生きる」について考えることです。今、自分の「生き心地」はどんなものでしょうか。もし大切な人に「死にたい」と言われたら、どうしますか。自分自信が「生きる」こと、そして、大切な人と共に生きていくことを、一緒に考え、想う時間になればと願っています。
尾角光美(おかくてるみ) Live on代表・自死遺児
死別を経験した人や遺児のケア(グリーフケア)、総合的なグリーフサポートを行う団体「Live on(リヴオン)」代表。グリーフを通じて、ひとりひとりが「ままに」を大切に生きられるような社会づくりをめざしている。2003年大学入学二週間前に母を自死(自殺)で亡くす。あしなが育英会を通じて遺児のケア・サポート活動に携わる。2006年から全国で自殺やいのちをテーマに講演をはじめる。2008年第五回京都学生人間力大賞で「京都市長賞」受賞。2009年4月『102年目の母の日』(長崎出版)を編著。同年9月から全国の自死遺児のケア・サポートをスタートさせた。
記
1 名 称 第3回解放運動推進研修会
2 日 時 2010年3月11日(木)午後2時から午後4時まで
3 会 場 高岡教務所
4 講 師 尾角 光美 氏(live on代表))
5 テーマ 「世をいとうしるし」
6 聴講料 1,000円
※ この研修会は、大谷派教師陞補(一種)対象の研修会でもあります。
御文をいただく 其の九 五帖目第一通⑨
《試訳》
仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて遙かなる時間が経ち、直接お説教を聞くことが出来ない今を生きている私たちは、こころをひとつにして阿弥陀仏に浄土往生を深くたのみ、更にはあれやこれやとさまざまな神仏に頼まず、こころをひとつにしてこころより阿弥陀仏に助けを請えば、たとえどんな罪深い生き方をしてこようが、必ず阿弥陀如来はお救いくださるのです。
これは、阿弥陀仏が佛となられるときに誓われた時のお心です。だから、このように自分のこれからの人生で頼るべき事がはっきりしたならば、意識して、また夢の中でもいのち尽きるまでお念仏をもうなさければならないものなのです。
あなたに敬いを込めて。
今年もナムナム大集会の案内を頂きました。
気持ちとしては生きたいんだけど、今年はあまり県外に出かけないと誓ったので・行くの止めます。
ナムナム大集会
非の思想
わがはからいにて行ずるにはあらず
親鸞は流罪以降、自分の位置を非僧非俗と名づける。
非僧とは、いわば国家から今拒否されたということであり、
非俗とは、その国家を
逆に拒否し返したといっていいのではないだろうか。
歎異抄には、「念仏は行者のために、非行非善なり」とある。
念仏がそれをする人にとって非行非善であるとは、
念仏は、徹底してこの世とは迎合しないものであることを
示しているのではないだろうか。
親鸞が大事にした「非」という言葉を、
身をもって表現してくださっているゲストを迎えての集会です。
流罪八〇三年の今、「非」について共に考えてみませんか。
【開催日時・会場】
2010年3月9日(火)
会場=午後12時30分
(会場前に東本願寺御影堂にておつとめがあります)
開演=午後1時
会場=大谷婦人会館(大谷ホール)
住所 京都市上京区花屋町通烏丸西入る上柳町215
電話 075-371-6181
参加費=1,000円(学生=500円)
【プログラム】
午後12時~
◆東本願寺御影堂にてお勤め
午後1時~
◆開会あいさつ
午後1時15分~
◆第1部 マリンバ演奏
ンコシさんとその仲間
午後2時15分~
◆第2部 講演Ⅰ 緒方正人さん
講演Ⅱ 河野義行さん
午後3時45分~
◆第3部 シンポジウム
午後5時 閉会
主催 ナムナム大集会実行委員会
自殺について考えてみませんか?
謹啓 師走の候、皆様方には益々ご清祥のことと拝察いたします。
解放運動推進小委員会では、年間3万人以上が亡くなっていて、社会現象とまで言われている自殺(自死)について取り組んでいます。前回の第1回解放運動椎進研修会では、防衛医科大学校教授の高橋祥友先生をお迎えし、医療の立場からお話しをいただきました。その中で先生は、白殺はこの社会の中で心理的狭窄状況に追い込まれた強制された死であるとも言われ、またぞの予防法(つまりうつ病)について、私たち周りの人間がが注意すべきことも教えていただきました。そして残された遺族の心のケアの大切さも言われました。つまり白殺は全くの個人的なものであるという受けとめは、間違った認識であるということを、私たちは教えていただいたのでした。
今回の第2回解放運動推進研修会は、小児科医でありまた大谷派の僧侶でもある梶原敬-先生をお迎えして、真宗カウンセリングの立場から自殺(自死)についてお話しをいただきます。お念仏を拠り処にする私たちは、「自殺(自死)」をどう頂いていけばよいのか、共に考えていきたいと思います。 :
つきましては、下記のとおり開催いたしますので、皆様お誘いあわせてご参加いただきたく、ご案内巾しドげます。
合掌
記
1名称 第二回解放運動研修会
2日時 2010年1月23日(土)午後2時から
3会場 高岡教務所
4講師 梶原敬― 氏(教学研究所嘱託研究員・小児科医)
【著書 生きるカ 東本願寺出版部出版】
5講題 「この社會で共に生きるということは」
6日程 14:○○ 開会・挨拶
14:05 講義 梶原 敬一 氏
15:45 質疑応答
16:00 閉会
7懇親会18:00 懇親会を予定しておりますので、ご参加ください
8聴講料1,000円
この研修会は、大谷派教師陞補(一種)対象の研修会でもあります。
真宗大谷派高岡教区教化委員会
問い合わせ 電話0766-22-0464
今年月参りの中で拝読する御文は五帖目第二通 八万の法蔵です。
ご一緒に拝読いたしましょう
それ○八万の法蔵をしるというとも●後世をしらざる人を愚者とす●たとい一文不知の尼入道なりというとも●後世をしるを智者とすといえり●しかれば当流のこころは●あながちに、もろもろの聖教をよみ●ものをしりたりというとも●一念の信心のいわれをしらざる人は、いたずら事なりとしるべし●されば聖人の御ことばにも●一切の男女たらん身は●弥陀の本願を信ぜずしては○ふつと、たすかるという事あるべからずと、おおせられたり●このゆえに、いかなる女人なりというとも●もろもろの雑行をすてて●一念に弥陀如来、今度の後生たすけたまえと●ふかくたのみ申さん人は●十人も百人もみなともに●弥陀の報土に往生すべき事●さらさらうたがいあるべからざるものなり●あなかしこあなかしこ
祈りから誓いへ
新年を迎え初詣に出かける人は多いと思う。日本の常識としてあるものなのだろう。そして神仏の前でいろいろな祈りをしてゆく、商売繁盛、家内安全、自分の健康...。神仏にいろいろなお願い事をする。祈りがかなえられる、かなえられないということを抜きにして私たちは思わずお願い事をする。我々の性分なんだろう。だからやめろといってもそんな簡単にやめられるものではないだろう。
でも、自分の幸を他人任せにすることはどうのようなものだろう。祈りかなわなかったら神仏のせいなのだろうか。初詣のときだけ、そして都合のよいときだけ祈りに来て願い叶えとは虫のよすぎることなのではなかろうか。私はそう思う。
私は最近神仏にお願い事をするとき、もう一つしなければいけないことがあるような気がする。それは「誓う」事だ。願いそして誓うことが大事な気がしてならない。願うこと誓うことは言い換えれば夢ということだろう。こうしたいという目標、夢。ただ、目標を立て、夢を見ているだけでは目標に近づいてはいけない、夢は叶わない。叶うためにそこに近づいていくにはどうしたらいいのか考え、そして実行すること。それが大事。そうでなかったら描いた餅でしかない。
神仏の前で祈り、そしてその祈りのために自分はどうするのかということを誓うことそして、生活上でその誓いを実践していくことこそ大事なのではなかろうか。
最近私は世の中の「安穏」なることを願う。願わずにはおれない。ニュースに写されてくる日本の現状、そして地球の有様。目をふさぎたくなる。しかし目をふさいだまま、社会の現状に目を背けたまま神仏に世の中の安穏、平和を願ってもしかたのないこと。自分の願いと現状をしっかり観察して、そのために自分はどうしなければいけないか、何ができるのか考えないといけない。安穏と叫ぶだけでなく、この世の中の安穏をイメージしなければいけない。この世の中にとって平和とはどういう事なのか、本当の平和とはどういう事なのか。自分が出来る平和への歩みは何だろう。歩み、ぶつかり、またイメージして歩んでゆく。この繰り返しが大切なような気がしてならない。私たちに、否、私に今までかけていたことなのではなかろうか。
A happy New Year
Let's hope it's a good one
Without any fear
War is over, if you want it
War is over now
ハッピー・ニュー・イヤー
いい年であればいいね
何も心配がなければいいね
戦争は終わる、
もしそう望むのなら













