2009年9月アーカイブ

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御往生
先月、在所で百歳を超えたお婆ちゃんが亡くなられた。このおばちゃんは私にとって最後の昔からのお婆ちゃんだった。別の言い方からすれば小さい頃からお婆ちゃんだった、もうそういう人は私の周りにいない。大概、今お婆ちゃんをされている方、お婆ちゃんらしい人は昔私からすれば、アネハンやったり、オッカッチャンやった。だけど今は...、そんな人がいまはお婆ちゃんになっておらはる、でもその人は私の中ではお婆ちゃんの姿しか記憶にない。
縁ある人の死を迎えるとその人との出会いが思い出される。後ろでお参りされているときの姿。草またいされている姿。いっしょにお茶を飲んでいるときの姿、お茶といっしょに頂いた漬けもんの味、笑い顔、その他色々...。縁が深ければ深いほど色んな出会いが思い浮かんでくる。
もう自分の中に遺る思い出の中でしかあえない、その人と。そしてその思い出からこれから私をいろんなことを導いて下されることだろう。だから亡くなった方を仏さんといってこられたのだろう。浄土に生まれられるといわれてきたことなのだろう。これから私をお浄土へ導いて下される方だからこそ、浄土往生間違いないことだ。
でも私たちは何気なく長生きされて亡くなっていかれた方を「大往生だった」という言い方を使う。その言葉が少し気になる。そういう言い方をすることが悪いわけではないけど。自分たちが往生を評価していることが気になるのだ。阿弥陀の浄土はひとつしかない。だから大小はない、なのに...。反対に幼くしてこの世の生を終えていかれた方を小往生とでもいうのだろうか。思ったより早くこの世を去っていかれ残された私たちにとっては本当につらい別れだけど。小さい往生なのだろうか。そういう死からこそ世の無常の事実を我に力強くお教えくださる。そういう意味で尊いこと。
往生は大いなること、大いなる往生ということなら理解できる。そういう意味では誰の往生も大往生だ。死に方で往生が変るわけでは決してない。
私たちが気にしなければならないのは亡くなられた方の行き先、評価ではない。先輩方は浄土に行かれたといわれているのだからその言葉を頂いていくしかない。死後のことを考えることは我等の限界を超えていることなのだ。私たちが大事にしていかなければならないのは亡くなった人のことではなく、私が往生されていかれた方から何を聞き取っていくか、何を学んで聞くかということだと思う。我が身の往生のことこそが一大事なのだ。

大谷暢顯御門首による帰敬式が執り行われます
帰  敬  式(おかみそり)
受式者募集中
とき 2010年4月24日(土)午後3時30分より(受付は11時より)
場所 井波別院瑞泉寺(南砺市井波3050)
問い合わせ 真宗大谷派 高岡教務所(高岡市丸の内2-15 ℡0766-22-0464)
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【高岡教区御遠忌お待ち受け報恩講】
10月1日午前10時より
  法話 藤田誓壽 井波別院輪番
13時15分より 仏教讃歌
別院報恩講初逮夜終了後  記念講演
  講演作家詩人 青木新門氏
【井波別院報恩講】
一日 14時    初逮夜
二日 07時30分 晨朝    11時 日中
     14時    結願逮夜 19時 初夜(御伝鈔拝読)
三日 07時30分 結願晨朝 10時 帰敬式
    11時    結願日中
初逮夜・日中・結願逮夜・結願日中 信明院殿御連枝御参修
法話 二日 砺波市 法泉寺住職 秋知義正師
     三日  南砺市 妙連寺住職 竹部俊恵師
【高岡教区子ども報恩講】
10月4日(日)午前九時から正午頃まで
   ※終了後白玉ぜんざいをみんなで頂きます
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 最近芸能人が覚醒剤所持などの容疑で相次いで逮捕されたということがあってか、テレビなどのマスメディアでは覚醒剤などの特集を繰り返し放送している。それによると覚醒剤を常習すると脳神経を刺激し、その感覚を忘れることが出来ず、覚醒剤を依用したいという意識は死ぬまで取り除けないものなのだということを放送していた。一言で言えば本当に恐ろしい薬と言えることなのだろう。また私には意識はないけれども私たちの本当に身近なところにまで覚醒剤などがやってきているそうだ。ちょっと感覚を澄ませば覚醒剤を手に入れようと思えば簡単に手に入る環境になってしまっているらしい。本当に恐ろしいことだ。
 また、覚醒剤などの使用を防止するためににか、覚醒剤を所持したり使用したりして逮捕されると一般の社会人として生活していけないということも、何度も何度もいっている。また芸能人の逮捕者などは見せしめみたい感じでも扱われている感も否めない。覚醒剤などを使用する犯罪についてもう一つ大事にしていかなければならないのは、覚醒剤をやめたいと思っているけれどもやめることの出来ていない人たちのケアーだと思う。ただ単に犯罪者に仕立てていくだけではいけないような気がしてならない。
 私は覚醒剤を一人でも使用する人を減らすために私たちが理解していかなければならないことは覚醒剤などを始めるときの気持ちではないかと思う。単なる興味だけから始める人はほとんど少ないそうである。端的な言葉で言えばすっきりするために始める人が多いそうだ。「これでいいのだろうか」というような不安からくる心にガスのようなものがかかった状態を何とかするために始めるそうだ。不安を亡くしたいという誰にでも持っている気持ちから覚醒剤を使用しようという気持ちになっていくということになる。そういう意味で言えば誰でも覚醒剤を始める種を持っているということになる。覚醒剤をやっているのは特別、特殊な人たちと見て行くのではなく、自分と同じ心を持つものとしてみていくことが大切なことなのではないだろうか。
 私たちは悶々とした思い、これでいいのだろうかという不安心をなくそう、すっきりさせようとしてしまうものです。しかし念仏を称えられてきた先輩方は、すっきりするために努力されてきたのではなく、悶々としている元を訪ねて行かれています。なくそうとされたのではなく向き合って行かれたのです。その悶々している心をたよりに自らを見つめていかれ、念仏を称えなければならない我が身に気づいて行かれています。
 悶々とした心をなくしすっきりしたいいのならば、コカコーラやサイダーを飲んだり覚醒剤に走るしかないでしょう、しかしどの方法も一時的なものであったり、その場しのぎ的なものでしかありません。どれも特効薬ではなく感覚を麻痺させるに過ぎない道具です。
 もし悶々とした思いと真向かいに向き合いたいのなら、念仏の歴史の流れにはいり身を任せることが一番良いことでしょう。そして悶々とする気持ちの大切さに気づき、心から念仏を称えることが出来ることでしょう。

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